(36) - 血の涙
「はぁっ、はぁっ、はぁ、は――ッ」
心臓は早鐘のように脈打ち、足はまるで石のように重くなっていた。
シルファ・シルティードは走っていた。
マキスという名の村を、ただひたすらに。
畑を越え、家の影を抜け、迫り来る追っ手から、熱から逃れるために。
しかし、もとより寂れはじめている農村ならば――逃げ隠れできるような場所も、あるとはいえず。
「……いたぞ、こっちだ!」
「っ――」
遠くから聞こえる声。擦れる金属の音。近づいてくる不穏な気配。
踵を返し、疲れる足に鞭打ってまた走り出す。
空は夜の色に変わろうとしていた。だがそれでも、周囲は煌々とした灯りに照らされている。
それは、夕日の色ではない。
爆ぜる火の粉。焼き焦がす臭い。
村は――炎に包まれていた。
道端に無造作に転がった黒い塊は、未だ弾けるような音を立てながら煙を上げている。鼻をつく肉の焦げる臭いは、ただ吐き気を催して。
村を死が満たしていた。もはや、生きている人間は自分以外の誰もいないように見えた。
(どうして――)
こんなことになったのか、と。
聞ける相手は誰もいない。パチパチと弾けるような音と黒煙が、ただ空に昇っていく。
カナメと別れ――村に辿りついて。そして宿屋へ向かう道中で、私達は襲われた。
村は焼かれ、村人は死に、私達は何者かに追われ。
気がつけば、ロイスという少年の姿はなく、私は一人走っていた。
放たれた炎はすでに周囲の森にまで広がり、唯一逃げられそうな門は、当然のように“彼ら”に見張られていた。
(どうすればいいの……?)
自問する。逃げ場はなく、かといってこのまま村に留まれば、ただ焼け死ぬだけだ。
(カナメさん……)
あの人を思う。あの人ならば、あの人ならば、こんな時でも助けに来てくれるだろうか?
危険も顧みず、私の元まで。
けれど、それは……。
(また、あの人を、危険に晒すの?)
私は覚えている。
姉を失ったあの日を。カナメさんが、今にも死にそうになって還ってきたあの日を。失った、失うかもしれないという恐怖を。
そんなことならば――いっそ、自分が死んだほうが、ずっとマシではないか。
「っ」
ごうっ、とすぐそばの家から不意に炎が噴き出して、私の頭上を掠めた。
(とにかく逃げないと。出来るだけ郊外に――)
村の中は危険すぎる。かといって見つかれば終わり。自分に出来るのはただ一時の延命だけ。
けど――。
(カナメさんは来てくれる。絶対……絶対に)
そう信じて、私は足を前に踏み出す。
「――どういうことなんですか」
建物の向こうから、聞き覚えのある声がして、私はびくりと身をすくませた。
覗き見ると……そこには一人の少年と、身の丈ほどもある大剣を背負った大男が居た。
「どういうこと、とは? どういう意味だロイス」
「そのまま、この状況のことを聞いてるんです。村に火を放つなんて――何を考えてるんですか!?」
詰め寄るロイスに、大男は「フン」と鼻を鳴らした。
「しょうがねぇだろ。なんぞ知らんが、お上としちゃどうしてもあの女を生かしておけん、だそうだ。ま、村に火を放つのはついでだな。口封じというやつだ」
(女……?)
あの女。男から出てきた単語に戦慄する。
生かしてはおけない。だから燃やした。ならば、もしかして、あるいは――。
――こうなったのは、私のせい?
「そんな……そんな理由で、こんなことを!?」
「構わんさ。ここがなくなっても、次の引き取り手も決まってることだし」
「なんで……兄さんの仇は、まだ……!」
「仇ぃ? ふ、ははははっ!」
ああそうか、と男は顔を歪め、天に向かって哄笑した。
「まぁだそんなこと言ってんのかロイス? お前は本当に馬鹿だなぁ」
「なにを……?」
「俺があの男を引き込んだのは、そういう依頼があったからだ。銀楯の、あの男を殺せってな。別に仇を取るためじゃねえ。第一――」
男はにやりと笑って、
「自分で殺した奴の仇なんざ取ってどうなるってんだ? はははははははっ!」
「な――にを」
言葉の意味が分からないというかのように、少年は唖然として。
対する男は、背中の大剣を抜き放って、ロイスへと突きつけた。
「だからさ。お前の兄貴は、俺が殺した、って言ったんだ」
「あ……」
突きつけられる切っ先。震える少年。そして――
「あ、ああああああああ!」
少年は剣を抜き放ち、男へと踊りかかった。
だが、とうに予想していたことだったのか。いつの間にか動いていた大剣が、剣を握るその手ごと断ち切って弾き飛ばす。
鮮血が飛んだ。
少年は、呆然と、信じられないものを見るかのように自分の腕だった部分を見下ろして……そして返す刃が、ロイスの喉元を貫いた。
「……くだらんな。復讐? 敵討ち? それでどれだけ飯が食える?」
ずぶり、と剣を引き抜く。
ロイスだったものが、捨てられるように無造作に地面に転がった。
ふううう、と、男は大きく息を吐き出して。
「さて……と」
そして、剣についた血も拭わぬまま――目が、合った。
「次は、アンタだ」
「――!」
その、声に。
金縛りにあったかのように動かなかった体が、まるで跳ねるように駆け出した。
逃げる。逃げる逃げる逃げる逃げる逃げる逃げる。
炎に巻かれて焼き尽くされる男がいた。犯されながら殺される女がいた。泣き叫ぶ赤子の声が聞こえた。その全てに、目を閉じて、耳を塞いで、私はただ走る。
そこには死が溢れていた。
なぜ彼らは殺すのか。なぜ彼らは殺されなければならないのか。その全てに答えなどはない。ただあるのは眼前の、死という現実だけ。
どこをどうやって逃げたのか――もうまるで覚えていない。いつの間にか周囲に家屋はなくなり、眼前にはただ湖が広がっていた。
(逃げられ、た?)
炎は遠く、熱も狂気もここにはなく。
安堵しかけた、その瞬間。
「残念だったなぁ、嬢ちゃん」
不意に横からぶつかってきた衝撃が、痛みとともに私の体を弾き飛ばした。
「か、はっ……」
肺から空気が抜け、強烈な痛みを抱えながら私は地面を転がった。頭をしたたかに地面に打って、土と血の味が口の中に広がっていく。
「もうちょっとで逃げられたかもなぁ。なかなか楽しい鬼ごっこだったぜ」
空が見えた。
夜色の、月さえも見えない雲空が。
何もかもが現実味がなかった。地面の冷たさも。空の色も。私を見下ろす男の顔も。突きつけられる刃さえ。
「だが残念。アンタを殺しさえすりゃ、俺たちゃ金をもらえるんだ」
あるのはただ、夜の闇で。
「だからまぁ――悪いな」
その闇の中で――振り下ろされる、刃の切っ先が見えた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
――灰色の雪が降る。
天上には、ただ青い月。青い青い月があった。
月光は揺らめいて、世界を、私を、暖かく包み込んでいく。母のように、ただ優しく。
灰色の雪が降る。
ぱらぱら、ぱらぱらと、破片のように。
まるで全てを覆い隠すかのように――どこまでも降り積もる。
全ての願いも妄執も、あらゆる生も死も――ただ灰に、全てがうずもれてゆく。
まるで、すべて等価にするように。
――ああ――
私は小さく呟いた。
これは世界の終わり。世界は還り、そして孵りゆく。
なら、ならば――私があの人に逢えることも、また当然ではないか?
――おかあさん――
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「……なんだ、これは」
空が白み始めたころ――村に辿りついた俺が発した第一の言葉は、それだった。
いや……実のところ、村になどたどり着いていないのかもしれない。そう思ってしまえるほど、その場所は変わり果てていた。
誰もいない。
誰の気配も、そこにはない。あるのはただ、崩れ落ちた建物たちと、所々に積まれた砂の山だけだった。
その砂の山を、ひとすくい手にとる。
夜の闇のせいで判然としなかったが、それはどうやら灰色の砂のようだった。
手にこびりつくことも、溶け消えることもなく、そのまま風にさらわれて消えていく。
「何が……起こった?」
理解ができない。一体何がどうなれば、こんな風になるというのだろう?
人もいなければ死体もない。建物はどれも燃え尽きて、今にも崩れてしまいそうなほど朽ち果てていた。
さしずめゴーストタウン、だろうか。
「……シルファ」
シルファは、どうなった?
「シルファ……どこだ!」
歩けども、歩けども、しかし人の気配はない。
あの傭兵たちも、村人たちも、まるで最初からなかったかのように、そこには誰一人として存在しない。生物の気配がなかった。
すべてが死に絶えたかのように、ただ静まり返っている。
歩いて、歩いて、歩いて……。
そして、村の郊外。ひときわ開いた場所に、それはあった。
広い湖。
一面の花畑。
青い花が、あたり一面に咲き誇っていた。
サァ、と、夜明けを告げるような風とともに、山の向こうから朝日が昇りはじめてゆく。
幻想的なその光景の中で――俺は、彼女を見つけた。
青い一面の花畑の中で、たった一人。
眠るように横たわる、銀色の少女の姿を。
「シルファ……」
胸の上で重ねられた両手は、まるで何かを祈るかのようで。咲き誇る花々は、そんな彼女を祝福するかのようだった。
そしてその頬には――ひとすじの涙。血の、涙。
「シルファ!」
花々を踏み分けて、彼女のもとにまで駆けつける。
穏やかな顔だった。外傷もない。
ただ閉じられた瞳から、一筋の血の涙が流れ落ちてゆく。
嫌な予感が背筋を震わせたが、しっかりと呼吸する彼女の口元を見て、俺は安堵に胸をなでおろした。
「生きてる……」
生きていた。呼吸も、脈も、おかしなところはない。
ひとまず安堵の息を吐きながらも、俺は彼女の肩を揺さぶった。
「シルファ……シルファ、起きろっ」
目覚める気配はない。
これは眠っているのか――それとも気を失っているのか。俺には何の判断もつかなかった。
(医者に見せないと……)
彼女の血涙を拭いながら、考える。
そう――サンクレアさんなら。あの人は『銀楯の聖槍』きってのヒーラーだ。あるいは彼女なら、何とかできるかもしれない。
「今……今、連れて行ってやるからな」
シルファを背負おうと彼女を抱きかかえようとして……ふと、地面に落ちたままだったものを見つけた。
(これは……剣の柄?)
刀身はなく、ただ柄だけ。それも小さいものではない。恐らくは大剣サイズ――。
と、手に取った瞬間、なぜか柄の端が灰色の砂へと姿を変えた。
さらさらと、あっという間にすべてが砂にかわり、指の隙間から零れ落ちてゆく。
(これは……)
何だ?
柄が砂に変わった――いや、実は柄というのは俺の見間違いで、最初から砂だった?
馬鹿な、とかぶりを振る。
「…………」
ゆっくりと、シルファの体を持ち上げる。
彼女は相変わらずの穏やかな顔で、寝息を立てていた。とりたてておかしな様子も無い。血の涙もその跡を残すだけで、もう流れてはいないようだった。
先ほどの柄のように、砂に変わってしまうんじゃないか――なんて思ったが、その様子も無い。
分からない。分からないことだらけだ。
だけど、それでも。
「……行こう」
シルファの体を背中に背負いなおして、俺は歩を進める。
シルファは無事だった。今はそれだけで十分だ。
もし――もしここにあった全てが、彼女を残して砂に変わってしまったのだとしても。
(俺には……どうすることもできない)
自分でもぞっとするほどに心が冷え切っているのは――今も手に残る、命を断つ感触ゆえなのか。
それ以上何も考えられず、俺はその花畑を背にした。
青く咲き誇る花々は、夜明けの風に揺られていく。そのひどく幻想的な光景に、けれど、俺は二度と振り返ることはなかった。
仕事の都合で掲載が遅れたこと、お詫び申し上げます。
次回更新予定は5月12日です。