(34) - 少女の悪夢
――悪い夢、だと、分かっていた。
甲高い音と、跳ねる銀光。
私を呼ぶ声。
視界を埋め尽くす、真紅。
「い……や――」
声を絞り出す。
枯らした喉は、言葉ではなく、この心臓を抉り出すかのような痛みを伴って。
「いや……」
それでも、私は否定する。
あるはずがない。あっていいはずがない。
しかしどれほど叫んでも、手を伸ばしても、その全てを否定しても、現実は変わらず。
ただ、時は刻々と流れ行くだけ。
「シノブ、姉……」
耳朶を叩く言葉は、もはや消えゆく炎の、最後の灯火のごとくか細くて。
「生き……て」
私に手が伸びる。
彼は、泣いていたのか、笑っていたのか、怒っていたのか。血に塗れた顔からは、何一つ分からなくて。
口を、開こうとしたその少年を。
銀光が、もう一度貫いた。
その五体が、崩れ落ちる。
「ぁ――」
じゅぐり、と、流れ落ちる赤。
「あ、ぁ――」
光を失う瞳は、ただ、全てが終わってしまったことの証で。
「ぁ、ああああ……っ!」
それはもう二度と、決して戻りはしない不可逆の現実。
認められず、認めたくなくて、それでも時間は決して過去には戻らない。
ぴくりとも動かなくなった、亡骸に触れる。抱きしめる。しかしそこに熱はなく。
嘲笑が、狂ったように私たちを包んでいた。
(あ……ぁ)
うめく。うめいても、私の心も体も、まるで動いてくれない。私の中にあるのは、ただ空虚だった。
まるで胸の底にぽっかりと開いた黒い穴に、すべて呑みこまれてしまったかのように。
そのかわりに、じくじくと滲み出るかのような、淀んだ何かが私を染め上げて、別の何かに作り変えていく。
(ああ……そうか)
立ち上がる。
(これが――憎い、ということ)
激しくはない。痛くもない。荒れ狂っているわけでもない。ただ、この体の中には、もうそれしか残っていないだけのことでしかなかった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「ん……」
目を覚まして、最初に見えたのは、薄暗い小屋の薄暗い光景。
体に絡まった毛布を剥ぎ取りながら、私はただ重い息を吐いた。
(また、いつもの夢……)
いつもの夢。ただそれだけ。だが、ああまで克明だったのは久々だった。
(理由は……彼?)
カナメ。カナメ・アーストライト。
彼は何者なのか?
その疑問はこの数日、私の思考の大半を占めていた。
似過ぎている。彼は似過ぎていた。
ありえないと分かっていて、知っていて、気づいていて。
それでもなお、縋りそうになってしまうほど――彼は似過ぎていた。
(ありえない……)
分かっている。彼が、カナメであるはずがない。
それでも――顔も、姿も、仕草も、そして私の名を呼ぶ声でさえ。
夢で、妄想で、幻影で見たそれよりも遥かにリアルに、彼はカナメだった。
「ありえない……」
ありえない。ありえない。――ありえない。
その言葉を何度も何度も、何度も繰り返した。
(……ありえない、のに)
私は、こんなところで何をしているのだろう?
合流もせず、たった一人、私は彼の跡を追い続けていた。襲うわけでもなく、姿を見せるわけでもなく、ただその背を追って。
「私は……何をしたいの?」
一人自問する。
「まったくもって、ね」
――その声に、まさか答えがあるなんて思わずに。
「っ」
思わず短剣を手に取って、跳ね起きる。
闇のむこう。暗闇の中に溶けていたその影は、一歩を踏み出して、滲むようにその姿を現した。
「あなたは――」
女。それは女だった。
夜の闇を濾し取ったかのような黒い髪。猫のように人懐こく飄々と、それでいて刃のように鋭い気配。
「……ルールカ・レイ」
「やほ、シノブちゃん」
静かにその名を呼ぶと、女は、陽気に手を上げてにこっりと笑った。
警戒は解かないまでも、構えていた短剣を下ろす。
「……何の用?」
挨拶を返すでもなく発した私の問いに、彼女は肩をすくめた。
「冷たいなぁ。私、シノブちゃんに嫌われるようなことってしたっけ?」
「……別に」
そういうわけではない、けれど。
(彼女は、いつどこで敵に回るかわからない)
戦闘狂。バトルジャンキー。そう呼ばれる人種は、必要性があるならば一瞬で敵に回る。どれほどの交友をかわした仲であろうと。
まぁいいか、と彼女は肩をすくめて、ひょい、と指で挟んだカードを私に投げた。
「オヤカタサマからのラブレターよん。あとはいつもの通りに」
「…………」
カードを拾い上げ、目を通す。そして懐から取り出した発火式魔道具で着火し、燃えたのを確認してからブーツの裏で踏み潰した。
「あと、もう一つ」
「……何?」
「ホラ。さっき言ったじゃない。どうしてここにいるのかナ、って」
にやにやと笑って、彼女はやれやれと首を振った。
「サボリは関心しないなぁ、お姉さん。みーんな頑張ってるのに」
「……あれは私の任務の範疇外。連中が勝手にやってるだけ」
「あらそう? まぁそうよね」
掌を返すようにうんうん頷くと、彼女は、その笑みをより強めて、私を下から覗き込んだ。
「じゃーあ……あのカナメって子は、シノブちゃんの何なのかなぁ」
「っ!」
瞬間、私は後ろへと飛びのいた。
殺気に、まるで首筋を撫でられたかのような感覚。もっとも、彼女は一歩たりとも動いていないし、武器を抜いたわけでもない。
だというのに――
(この、女……)
「素敵よねぇ。身分を越えた愛――恋? いやんもう、シノブちゃんたらイケナイんだから」
「……何を言ってるの」
吹き出る汗を無視して、私は声を絞り出した。握り締めた両手の短剣が、これほど頼りなく思えたのははじめてだ。
「だぁってシノブちゃん、あの子を見つめてるとき、恋する乙女なんだもん」
茶化すような言葉。
だがその言葉が意味するのはつまり。
(ずっと……私は監視されていた?)
「素敵よねぇ。応援したいなぁ。でも私……ホラ、お役目があるし」
「違う」
私は、かぶりを振った。
「そんなのじゃない。……私と、彼は、関係ない」
関係ない。
そう、関係ない。あるはずがない。
「そう? なら、殺しちゃってもいいよね」
「っ」
あっさりと言う彼女に、ぎくりと私の体が強張った。
死。殺す。よぎる悪夢と憎悪。
強張った私の顔を覗き込んで、にやりと彼女が笑った。
「ほぉら。やっぱり……ね?」
「違う。私は……」
「駄ぁ目。殺気が漏れてるわよ、シノブちゃん?」
はぁ、と彼女はため息を吐いて。
「もぉ、シノブちゃんたら、私に嘘なんかついて……そんな悪い子には、ホラ。お仕置きしないと、ね?」
「ッ!」
言葉が終わるや否や――猛烈に嫌な予感がして、私は横に跳んだ。
……しかし、何も起こらない。ナイフや魔法が飛んできたわけでも、襲いかかられたわけでもない。少女は一ぽたりと動いていない。
だというのに。あのまま止まっていたら、私は確実に死んでいた。その確信だけはあった。
「わーおすごい。さすがシノブちゃん。ほらほら、頑張って。じゃないと――」
冷や汗が止まらない。
女が、舌なめずりをするように、楽しそうに。
「あのカナメくん。私が殺しちゃうよ?」
「……っ!!」
脳漿が破裂するような感覚に、私の体が跳ねた。
床を飛ぶように疾走し、短剣を跳ね上げる。だがその一撃は、彼女の体に届く直前、甲高い音と火花を散らして弾かれた。
(なっ……!)
唖然とする。何が起きたか、起こったのか、まるでわからない。
もはや体勢の回復は不可能――無防備になった腹に、彼女の蹴りがめりこんだ。
「ぐ――っ」
派手に跳ね飛ばされて、そのまま床の上を転げ回る。
「あらら。痛そ――でもないか。当たる瞬間に自分で飛んで、ダメージ軽減……かな?」
「…………」
無言で、ただ起き上がり、短剣を構える。
ふふ、と彼女は笑って。
「それじゃ、殺し合いましょ。私たちらしく……ね?」
楽しそうに、そう笑った。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
そして……どれほど時間が経ったろうか。
夕暮れは既に過ぎ、隙間から差し込んでいた光ももはやなく、小屋の中にはただ漆黒の闇だけがあった。
その闇の中で――私は、床にはいつくばっていた。
体中につけられた無数の傷跡から、じくじくと鋭い痛みが私を侵食していく。
手も、足も出なかった。
私の短剣は一度たりと彼女に届かず、形も音もない刃に切り刻まれた。
死なない程度に手加減されて――
――覚えておいて、シノブちゃん。
去り際、彼女の言った言葉が、私の脳裏をよぎる。
――あなたは人殺し。あなたにできるのは、ただ人を殺すことだけ。
――だからねシノブちゃん。もし貴方が、必要のないものを持ち込むつもりなら……
――私が、彼を殺すわ。
(私は……)
どうすればいいのだろう、と。
色々なものが頭をよぎる。
カナメと、自分。死と、悪夢。
この世界はどこまでも残酷で、何一つの幸福だって、私の手には残らない。
瞼を閉じる。
このまま死ねるなら、どれほど幸せだろう?
このまま――何もない世界に行けるなら……。
沈みゆく意識の中、私の耳には、小屋の扉が開く音と。
「……シノブ、姉?」
幻聴のような――声を聞いて。
私の意識は、ただ底なし沼のように、どこまでも沈んでいった。