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悠久のフォルトゥーナ  作者: 卜部祐一郎@卜部紀一
外章 剣と少女と彼の願い
32/43

(29) - 願うこと


 カールフェルト広野を東に進んだ先、『迷いの森』と渾名されるウルベキスの森との境界沿い。

 ひっそりと流れる滝に隠れて、その洞窟は存在していた。


「こんなところに洞窟があったとはな……」

 リンが、滝の露に濡れたマントを手で払いながら、そうひとりごちた。

 インベントリから具現化させたカンテラを腰にくくりつけながら、俺は小さく頷く。


 この採掘ポイントは、高品質な鉱石が高効率で採れることもあって、非常に人気のある場所だった。その存在が知れ渡った後には、一組一時間というローカルルールが設けられたほどだ。

 だが、あれほど賑わっていた洞窟に、まるで人の気配は見当たらない。むしろ誰一人立ち入っていないのではないかと思えるほど、静謐な空気に満ちていた。

 その空気は、発見当初、興味本位で洞窟を隅から隅まで探検した時のそれにも似ている。


「懐かしいな。あの時は、確か――」

 シノブ姉も、ここにいた。

 不意に紡がれた言葉を、俺は強引に押し留める。


 思えばそうだった。

 俺の、オーリオウル・オンラインにおける記憶のすべては、シノブ姉との記憶に彩られている。


「カナメさん?」

 横合いから、シルファが俺を心配そうに覗き込む。なんでもない、と首を振った。

「……行こう。採掘ポイントはまだ奥だ」

 全員が首を縦に振る。俺も頷いて、洞窟の奥へと足を踏み出した。


「しかし、凄いですね……これって、天然の鍾乳洞なんでしょうか?」

「みたいね」

 ミミさんの言葉に、サンクレアさんが同意しつつ頷いた。

 まるで人の手が入った様子もない。天井からつららのような岩がいくつも伸びて、どこか神秘的な空気すらも漂わせている。


 その光景に見入る一行に、「だが」とリンが口を開いた。

「人の手が入っていない分、崩落の危険性もある。十分に気をつけて――」

「あっ……!」

 と、リンが言い終わるよりも前、その声を遮ってシルファが声を上げた。


 前方。洞窟の中でも一際開けた空間。そしてその中央には、青い燐光を放つ巨大な湖が広がっていた。

「綺麗――」

 サンクレアさんが感嘆の声をこぼす。

 それは全員が同感だったのだろう。誰一人として言葉を挟むことはなく、呆然と、その光景に見入っていた。


「……この青い光は、ミスリルが溶け出てるのか?」

 しばらくの沈黙のあと、リンが青く光る湖水を手で掬いながら告げると、ミミさんがうなずいた。 

「みたいですね。……もしかしたら、この水からミスリルが取り出せるかも――」

「あー……それは多分、無理じゃないかと」

 おずおずと俺が告げる。


 なぜそれが分かるかと言えば……オーリオウル時代、同じようなクエストがあったからだ。

 そのクエストは、さる魔術師とやらが湖水からミスリルを精製しようとする、というものだ。なのだが、なんでもこの湖は河に繋がっているようで、濃度が薄すぎて精製できないまま……と、そんな話だった。

 結局、ひどい人ごみの中を何度となく往復させられた挙句、しょぼいアイテムだけが報酬として残った。その世知辛さから、よく覚えている(といってもクエストは往々にしてそんなものだったが)。


 そんな事情をかいつまんで説明すると、「そうですか……」とミミさんがその肩を落とした。

「まあ、気を落とすな。逆に言えば、これだけ溶け出しているということは、良質の鉱脈があるということだろう?」

 ミミさんの小さな肩に手を置いて、苦笑しつつリンが言うと、「で、ですよね!」と急速に元気を取り戻し、両手を握り締めた。

 俺は頷いて、

「ああ。採掘ポイントはこの奥……」

 と、言葉を続けようとした瞬間――。


 不意に、視界が揺れた。

(なっ……!)

「地震……!?」

 俺の横で、リンが戦慄するように告げた。

 足元が定まらない。

 まるで酩酊感にも似たそれは、徐々に激しく、激しい唸りをあげて洞窟そのものを揺らしてゆく。


「きゃあっ!?」

「わっ、わわ……っ!」

 それぞれ、各々が声を上げながら蹲り、しがみつく。

 しかし、かといって逃げる場所もない。洞窟そのものが崩落などしてしまえば、生き埋まる以外に末路もないだろう。

 ぴしり、という岩が割れる、不吉な音。

 上を見れば、巨大なつららのような岩が、今まさに落下しようとしていた。そしてその下にいる、一人の少女――。


「リン!」

 黒髪の少女は、一人蹲っていた。その顔面は蒼白だ。体のどこかを打ったのかもしれない。

 とても、動けるようにも見えなかった。

(間に合え……!)

 願いながら地面を蹴る。

 ――そして、ほぼ同時。ついに支えを失った巨岩が、その大質量のままに落下した。


 ずぅん、という鈍い音とともに、砂埃が撒き散らされる。俺は――背後に突き立つ岩を肩越しに見て、はあ、と小さくため息を吐いた。

「カナメ……」

 腕の中で、呆然と俺を見上げたリンが、弱々しく声を上げた。


「大丈夫か?」

 顔を覗き込んでそういうと、リンはその顔を赤く染めながら、「あ、ああ」とうなずいた。

 間に合って良かった――と、その言葉を紡ぐ前に。

「カナメ、リン!」

 背後からの、サンクレアさんの鋭い声。

 だがその声に振り向くより前に、ピシリ――という不吉な音が、俺の足元から聞こえた。


(……まさか)

 予感。そして悪寒。

 この洞窟ダンジョンは、地下に延びていた。

 ならもしも――今の衝撃で床が崩れればどうなるか?


「リン!」

 俺は少女の手を取る。

 それとまったく同時――音を立てて崩れた足場から、逃れる術もなく。

 俺たちは、何の抵抗もできないまま、重力に引かれるままに、深い闇の中へと落ちていった。


  ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


「……メ、カナメ……ッ!」

 声。ひどく焦っているような声が、雫のように、黒い帳に波紋を落としてゆく。

 暗く、重い。

 その淵から引きずりだされるように、俺は、うっすらと目を開けた。


「カナメッ!」

「リ、ン……?」

 ぼやけた視界に写る、黒髪の少女。

 リンは、その目をわずかに拭いながら、「良かった……」と呟いた。


「ここは……俺は?」

 混濁する意識を振り払いながら問うと、リンはその顔に心配そうな表情を浮かべて、

「覚えてないのか? カナメが私をかばって、床が崩れて……」

「……ああ、そうか」

 朧げながらに思い出す。

 頭を振って、壁に手をつきながら体を起こす。リンが心配そうな顔で見つめるのを、「大丈夫」とうなずき返し……上を見上げた。


 そこは、ただただ広い場所だった。俺たちが落ちた場所だろう、ぽっかりと開いた穴もひどく遠く、小さく見える。

 床が崩落したとき……見下ろしたその高さから、落下死は免れえないことに気づいた。

 落ちれば、俺もリンも死ぬ。それを悟ったとき、咄嗟に近くの壁に剣を突き刺して、その落下速度を緩めたのだった。


(上手くいったのは奇跡だな……)

 俺は、自分の横に転がっていた、柄だけの剣を眺めてひとりごちた。

 当然、あんな使い方をすれば折れるに決まっている。

「……すまない、リン。貸してもらった剣を」

「気にするな。いやむしろ、私は助けられたんだ。剣一本だと思えば安すぎるぐらいだ」

 そういって、彼女は笑う。

 そこには嘘も世辞も見えない。俺はわずかに安堵しつつ、もう一度「すまない」と言った。


 と――はっと、俺は天井を見上げた。

「そういえば、皆はどうなった?」

 あるいは、あの地震や崩落に巻き込まれていないとも限らない。

 俺のそんな心配を吹き飛ばすように、リンは「大丈夫だ」と笑って、


「全員無事だよ。だが、ここの出口が見つからなくて、外に救助を呼びに行くと」

「そうか……」

 周りを見渡す。確かに、出口らしい出口は見当たらない。上の穴から引っ張りあげてもらうしかないだろう。


「待つしかない、か」

 俺は深く息を吐きながら、天井を仰いだ。

 できることは何もなさそうだ。リンも同感だったのか、俺の横に腰を下ろした。


 手暇になった俺は、再度、自分たちのいる場所を見渡した。

 洞窟、というよりも大空洞、とでも呼ぶほうがふさわしいかもしれない。円柱状に伸びる空間は、どこか整然としていて、神聖さすら漂わせている。

 床のほとんどは水に浸かり、しばしば砂で出来た丘のような部分が、水面から顔を出していた。

 俺たちが無事に生き残れたのは、そのお陰もあったかもしれない。


 ふと、俺の横に座る、リンへと視線をやった。

 彼女の表情は読めない。その視線は遠く、両膝を抱えて、黙りこくったままだ。

 俺は、彼女に掛ける言葉も思いつかず、ひたすら沈黙だけが流れていく。


 ふと、彼女が口を開いた。

「ひとつ、聞いてもいいか?」

「うん?」

「……シノブ姉、というのは、お前の知り合いなのか?」


 不意の言葉に、俺は答えられなかった。

 突然すぎる質問。そして、突然のその名前。

(いや……違うか)

 突然ではない。むしろ――覚悟しておくべきだったはずの言葉だ。


 俺は、ただ深く息を吐いた。

「やっぱり、聞かれてたのか」

「ああ」

 それも当然だ。シノブ姉と対面したとき、すぐ横に彼女もいたのだ。聞こえていなかったはずがない。


「彼女は、私を、私たちを殺そうとした」

 リンは、湖水を見つめたまま合わそうとしないその双眸に、どこか辛そうに力を篭めた。

「そんな彼女と関係を持つ君を、騎士団は看過できないだろう」

「……だろうな」

 俺は頷く。


 あの一件で、『銀楯の聖槍』がどれほどの被害を受けたのかは知らない。しかし、ゼロではないだろう。

 シノブ姉の起こしたことで、誰かが死に。

 ……そして俺は、それを止めることができなかった。

 後に残ったのは結局、騎士団の敵であるシノブ姉と、シノブ姉と殺しあったリンと、何もできなかった俺。ただそれだけだ。


「でも、リンはどうして……それを騎士団に報告しないんだ?」

 それは、少し意外なことだった。

 リンは、誰よりも騎士であることに誇りを持っていた。そんな彼女が、職務であるはずの報告を行っていない、ということ。

 それは今日のサンクレアさんや、そして今日までの、見舞いに来てくれていた騎士団の面々を見れば明白なことだった。


「……それは」

 彼女が、躊躇うように言葉を詰まらせる。

 そして――彼女の目が、まっすぐに、俺へと向けられた。


「私が……私自身で、聞きたいと思ったからだ」

「聞きたい?」

「彼女が何者で、お前にとってどういう意味があって……そしてお前は、いったい何者なのか」


 ――お前は、いったい何者なのか。

 過去を問うその問いかけに、ちくりと小さな棘が胸に刺さる。

 それを語るということは、すべてを、俺の失ってきたすべてを語るのと同じことだ。

 シノブ姉を、ユーリさんを、ライを……そして、ここにはいないあのリンを。


 もしここで俺が「言いたくない」と言えば、彼女はきっと「そうか」と言ってくれるだろう。騎士団にも報告しないままかもしれない。

 一番平和的に、彼女は済ませてくれるかもしれない。

 リンの目を見れば、そう思えた。


(……だけど)

 彼女は、きっと自分自身を裏切った。

 騎士という自分自身の枠を裏切ってまで、俺を庇い、そして願った。知りたいと。

 それは、どうしてなのか?


(決まってる)

 俺を、信じたからだ。


 ここにいる、俺を。流されるまま、何もできないばかりの俺を、心の底から信じているから。

 彼女にとっての何が、俺の何が、そうさせたのかは分からない。

 彼女と俺は赤の他人で、会ってそう日も経ってなくて。それでも彼女は、俺を信じた。


 そしてそれは、俺にとっての救いだった。

 あの花火の日、どうしようもないこの世界で、ただひとつ、俺を立たせてくれた救いだ。


(なら、俺にできることは――ひとつだけ)

 俺は、リンに向き直る。

 すべてを話すために。

 俺の痛みも苦しみも、失くしてしまった幸福も。


   ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 語り終えて……俺は、深く息を吐き出した。

 すべてを吐き出した。俺が元居た世界のことも。そこにいた愛しい人たちも。そして、帰れないという事実も。

 結局のところ、俺は誰かに聞いてほしかったのかもしれない。気がつけば、何もかもを話してしまっていた。


「つまり……君は、この世界の住人ではない、と?」

「そういうことになる」

 自分で言っておきながら、なんて荒唐無稽な話だ、と苦笑する。


「笑ってくれていい。信じられないのも当然だから」

「いや……げえむ、というのは正直よく分からないが……。つまり君の世界では、君の言うニホンとやらと、このフォルトゥーナによく似た世界の二つがあった、ということだろう?」

「ああ……まあ、そういうことになるかな」


 オンラインゲーム、だのといってわかるはずもない。だがそれに彼女は頷いて、

「それなら確かに辻褄は合うな。君が妙に世間を知らなかったり、逆に今日みたいに、妙なことを知っていたり……。まあ私やクレアや、ミミによく似た人間がいた、というのは不思議な話だが」

「……リンは嫌じゃないのか? 俺はつまり、リンたちに……言ってしまえば、別人を重ねて見ていたんだ」


 俺の言葉に、彼女は困ったように「どうだろうな」と苦笑した。

「まるきり嫌じゃない、というのは嘘かもしれない。だが、それは仕方のないことだろう? 外見や声だけじゃない、性格や名前もまるきり同じなんだから」

「けど」

「カナメ、こんな話があるのを知ってるか?」


 言葉をなおも続けようとする俺を遮って、彼女はそう言った。

「この大陸は――女神と七人の賢者によって作られた、いつか楽園へ至るための箱舟だ、とな」

「……それは?」

「古い神話だよ。巨人族との戦いに生き残った七人の賢者がいて、彼らと、そして女神とがこの大陸を作った。だがこの大陸は仮初のもので、いつか我々の先祖が居たという、もうひとつの世界にたどりつく……」


 もしかすれば、と、彼女は俺を見て苦笑した。

「お前は、その楽園から来たのかもしれないな。そして君の仲間たちは、私たちの先祖……かもな」

「…………」

 そんなわけがない、ことを、もちろん俺は知っていた。

 オーリオウル・オンラインはただのゲームに過ぎない。電気信号によって作られた、単なる娯楽。時間が過ぎ、飽きられればやがてなくなる。


 ただ、俺は何も言えなかった。

 どれほど言葉を募らせても、彼女を納得させるには至らないことが分かっていた。それに……そう思ってくれるのは、俺にとって救いでもあった。


「だが、なんにせよ不思議だな」

「え?」

「シノブ姉……君の義理の姉、か。彼女は確かに、面識がないはずの君の名前を呼んだんだろう?」

 ――カナメ、と。

 あの日と同じように、俺を呼んだシノブ姉の声が、頭をよぎる。


「彼女も……君と同じ世界から来た、ということか?」

「どう、だろうな」

 もしそうならば、あのとき、リンに反応しなかったはずがない。

 あるいは何かの事情で、リンのことを忘れてしまったのか?

 それとも、何か他の――何かがあるのか。


「……そうか。それを確かめるために……行くつもりなんだな。彼女のもとへ」

「っ」

 驚いて、彼女を見る。

 彼女もまた俺を見ていた。まっすぐに。何ひとつ、曇ったものを映さないようなその瞳で。


「私はようやく分かったよ。あの日の君の痛みも、辛さも、苦しみも。何一つとして分からなかったが……ようやく」

 彼女は、ほんの少しだけ目を閉じて。そして、自分の胸に手を当てた。

「私が……君を苦しめていたんだな」


「リン……それは」

 だから、と彼女はかぶりを振った。

「こんな私に、君を止める資格は――」

「……違うんだ、リン」

 言葉を続けようとする彼女を遮って、俺はかぶりを振った。


 ――確かに、彼女の言うとおりかもしれない。

 この世界に来たあの日。誰も、俺を覚えてはいなかった。リンも、ミミさんも、マスターも。

 その苦しみも痛みも、帰れないと知った絶望も、昨日のように思い出せる。


「でも、俺はリンに救われた。リンが居なければ、シルファを救うことも、俺が今ここに立っていることさえ、きっと出来なかった」

 生きようとすら、俺は思えなかったろう。

 たった一筋の救い。あの日のリンとシルファの優しさが、俺に、絶望に負けないだけの力をくれた。この世界で立つための力を。


「だから、守りたいと思った。俺を救ってくれた人を。でも……」

 そんなとき、シノブ姉が現れた。俺たちの、俺の守りたい人の敵となって。

 アサシン。それは騎士、リンにとって、明確な敵だ。

「俺は……ただ、リンとシノブ姉が、殺しあうところなんて見たくない。ただそれだけなんだ……」


 本当なら、笑い合っていたはずだった。共に笑い、共に戦って、仲間と呼び合っていたはずの二人。

 そんな二人が、殺しあう。

 俺にとって、それは悪夢でしかなかった。


「ただの我が儘だって分かってる。ここは俺の知る世界じゃない。俺の知るシノブ姉じゃない。俺の知るリンじゃない。俺の知ってる、二人の関係じゃない。何もかも分かってる!」

 ――だとしても。

「だとしても……認めたくないんだ。二人が殺しあうところなんて、そんなの……っ!」

「カナメ……」


 吐き捨てるように、俺はかぶりを振った。

「俺は、きっと間違ってる。……俺は、俺の現実を、ただ押し付けているだけだ」

 顔を伏せる。もう、リンの顔を見れなかった。

 俺の我儘は、ここにいない『リン』を、ただ目の前の彼女に押し付けているだけに過ぎない。

 それは彼女を、偽物扱いしているに等しい行為だった。


 うつむいたままの俺の耳に、物音が聞こえた。彼女が動く音。

 呆れたか、怒ったか……どんな仕打ちも受け入れようと、心に決めた、その瞬間。

 ふと、手のひらに伝わる感触。

 それは……彼女の手だった。小さくて、暖かくて、少しだけ硬いその手が、俺の手を握っていた。


 そしてそのまま、俺の手を、引き寄せるように自分の胸に当てる。

「なっ……!」

 突然の凶行に、俺は自分の顔が真っ赤になるのが分かった。だがリンは、そんなことなどお構いなしに、今度は空いている逆の手を、俺の胸へと押し当てた。


「……聞こえるか? 私の心臓の音が」

「え? あ、ああ……」

 しどろもどろに答えると、彼女は頷いて、

「私も聞こえる。君の心臓の音がな」

 そして、彼女はぎゅっと、俺の手を握る指先に、力を込めた。


「私たちは、この通り生きている。同じ世界、同じ場所で。違う願い、違う信念、違う我が儘を持って」

 俺は顔をあげる。

 彼女は、ただ微笑んでいた。

 それは、まるで、吸い込まれそうなほどに綺麗な、そんな微笑み。


「誰だって、違う心を持ってる。願って、祈って、譲れない何かを持っている。そして……」

 彼女は微笑みをたたえたまま、かぶりを振った。

「たとえこの心臓が止まっても、人は願い続ける。いつか、自分の願いが、祈りが、現実になることを祈っている」

「心臓が止まっても?」

「そう。たとえ心臓が止まり、命が尽き果てても。想いは、願いは、人に受け継がれる。私の心臓から、君の心臓へと」


 たとえ命が尽き果てても。

 願い、祈り、そして生きた果てで。

 その願いが誰かの心を打ったのなら、その想いは受け継がれていく。永遠に。

「人はそうして、互いの想いや願いを押し付け合う。私たちの心臓が、こうして鼓動を伝え合うように。たとえばそれが優しい祈りなら、きっと、いつか誰かを救えるはずだと信じて」

 それは、奇跡なのかもしれない。あるいはこの世界に許された、唯一の。


 そこまで言って、彼女は苦笑した。

「……これは、私の母の教えだ。自分の為ではなく、誰かの為に祈るのなら、きっと叶うはずだと――そしてそれは、いつか自分を幸福にしてくれると。そう言っていた」

 だから、と彼女は言った。


「押し付ければいいさ。確かに私は騎士で、彼女はアサシンで、手を取り合うことは簡単ではない。だが」

 彼女は笑って、俺の手を優しく握り締めた。

「私も、できることなら彼女と殺し合うよりも、笑い合えたほうがいい。敵じゃなくて、君が言うような……友達になれたほうがいいに決まっている」

「……リン」

 彼女の瞳はどこまでもまっすぐで、指先に触れる彼女の体温は、どこまでも暖かい。


「お前が守りたいと願うものを守れ。救いたいと思うものを救え。それは……何一つとして間違いなんかじゃない。私は、そう信じる」

 間違いのはずがない、と。


 俺は、返す言葉をなくして……ただリンを見つめていた。

(俺は……ずっと怖かったのか)

 前へ、踏み出すということ。

 ただ一歩、勇気を出して、前へ進む。


 世界が違う。人が違う。何もかもが違う。自分は異邦人でしかなく、この世界にある何もかもが他人事だった。

 踏み込んだとしても、自分が傷つくだけだと。そうして、何もかもを諦めていた。怖がっていた。


 でも。彼女に言われて、ようやく気づいた。

 前へ進まなければ、人は永遠に立ち止まったままだ。

 立ち止まったまま……救えるものなんてない。手に入れられるものなんてあるはずがない。


「俺は、本当に馬鹿だな。こんな簡単なことに、いつまでも迷って」

「まったくだ」

 二人して、また苦笑する。

 ……ふと、その拍子に触れた柔らかい感触に、ようやく自分の状態を思い出した。

 要するに、リンの胸に手を置いている今の状況に、だ。思わず赤面する。


「? どうした?」

「あー……いや」

 首を傾げるリンに、思わず言いよどむ。

 逡巡するも、リンはどうやらまったく気づいていないらしい。

「いや……だから。そのぅ、感触が……」

「感触?」


 問い返したリンは俺の目線を追って、そして胸元へ。

 一秒、二秒と経過して、ようやく気づいたらしいリンが、頬を真っ赤に染めた。

「っ……!」

 ずさぁっ、と音がしそうな勢いで後ずさる。


「お、おおおお前というやつは……人が真面目な話をしているときに、そんな破廉恥なことを……ッ」

「い、いや! 不可抗力! 不可抗力だからこれは!」

 怒気をはらませてゆくリンに、思わず目の前で手を交差して、降参の意を示す。

 しかしまさか本当に無意識、というか気づいてなかったとは。


(まあ、リンだしな)

 なんとなく説得力がありそうなそれに、思わず俺は苦笑してしまう。

「……何を笑ってる」

「いや……なんというか。しまらないな、と」

 しばらく、憤懣やるかたない、という顔をしていたリンだったが、やがて彼女も「はあ」とため息を吐いて、「まったくだ」と呟いた。


 俺は思わず噴き出す。

 ああ、まったくもってしまらない。

 しまらないが……きっとこの方が、俺たちには似合っている気がした。


 しばらく、俺たちは腰を下ろし、洞窟の天井を見上げていた。

 その向こうで、やおら騒がしさが増している気がする。救助が、もうすぐ来るのかもしれない。


 そんなことを、思いながら……

「俺は、行くよ」

 ぽつり、と、俺は呟いた。


「ああ」

 ぽつりと、リンも返す。

 それはもしかすれば、俺たちにとって別れの言葉なのかもしれない。


 でも、俺は願うのだ。


 いつかリンもシノブ姉も、俺も、誰も彼も。

 まったく違う、俺の知らないこの世界で。

 あの日のように――笑って過ごせる日が来るように。


 そのために戦おう。

 俺の、自分自身の願いのために。

 いつか俺たちが笑い合える、幻想のような未来(しあわせ)のために。


 俺は、この世界で抗おう。

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