(26) - 帰還
人とは、いずれ朽ちるものだ。
死は、誰にでも訪れる。病に冒された老婆にも、はしゃぎ回る子供にも、愛し合う夫婦にも。私の愛する人にも、私の憎む人にも、誰にでも。
自分だけが、特別不幸を受けているわけではない。
自分だけが、特別に傷ついているわけでもない。
誰もが、痛み、苦しみ、傷つき、死んでいく。ひたすら平等に……その中で私たちが生き残っているのは、偶然という、無作為な不平等の結果に過ぎなかった。
「……カナメ」
もぞりと、くるまった毛布の中で私は身じろぎした。
私が名を呼んだ少年は、ただ安らかに眠っている。ときどきその口元に手を当てて、流れ落ちる吐息を感じては、安心の溜め息を吐いた。
――周囲に、人影はない。否……もはや廃れてしまったその村に、命と呼べる命は存在しなかった。ただ全てが死に絶えて、ある者は灰に、ある者は肉となった。
しかしそんなことなど、私――シノブ・アーストライトにとっては些末でしかない。
「カナメ……」
そっと、髪を撫でる。
私にとっては、彼こそが全てだった。
シノブ・アーストライトにとって、カナメ・アーストライトが生きてさえいるのなら、その全ては満たされている。
父も母もなく、肉親と呼べるのは一人だけだ。そんな私の世界は、ただそれだけで完結されている。そのことに対して疑問もなければ、ましてや不満などあろうはずもない。
もちろん、村の人たちに恨みがあったわけでも、無関心なわけでもなかった。
彼らは、身寄りもない私たちに、それなりにはよくしてくれた。私との関わりは薄かったが、特に、カナメをよく可愛がってくれていたと思う。
確かに、感謝はしていた。
だけれど、線引きは越えられない。彼と、それ以外という明確な線引き。私の中にあるその線から内側は、後にも先にもたった一人。
だから、彼らの死は、ただ人が肉になったという、ただそれだけでしかなかった。
カナメは泣いて悲しんだけれど、結局その程度の意味合いでしか、私の心に小波を起こすこともなかったのだ。
(明日には……ここも出ないと)
私たちが身を寄せ合っているのは、一軒の家だった。ひどくボロボロで、窓も一通り割れているが、それでも多少の雨風を凌ぐことはできる。
そして第一に、ここは、ほんの束の間だったとはいえ、彼と私が共に安息を過ごした家でもあった。
しかし永遠と思えた楽園は終わり、明日には、この家を旅立たねばならない。
なぜなら――現実問題として、既に蓄えが尽きていたからだ。
(家畜がいれば……いえ、畑があれば、まだなんとかなったのだけれど)
あの狂信者たちは徹底していた。
畑を焼き、家畜を殺し、備蓄も全て奪い尽くしていった。
人が尽き、蓄えも尽き、そして畑すらも失ったこの村は、もはや死に絶える他にない。それが冬ともなれば尚更のことだ。子ども二人で生きていける環境ではない。
(隣街に行こう。それで……戦士、いや、冒険者にでもなれば)
ひとまずの生活は保障される。カナメも一緒に冒険者となれば、それぞれの命を、目で視る方法が手に入るとも聞いていた。悪くない。
「貴方は……私が守るから」
――たとえ、この命と引き換えにしても。
密かに決意して……私はただ、彼の髪を、飽きもせずに撫で続けていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
そして、俺は目を覚ました。
「……え?」
窓も割れていなければ、ましてや毛布の中でもない。
俺が目を覚ましたのは……いつもの宿屋の、ベッドの上だった。
「え? ……あれ?」
ひどく違和感を感じて、周囲を見渡した。
そこには、誰の姿もなかった。清潔なベッド、やや汚れている部屋、立てかけられた剣や折り畳まれた制服、その程度のものしか存在しない。
もちろんのこと、シノブ姉の姿はどこにもなかった。
「夢……か?」
夢を見ていた。だが、その夢の内容はといえば、まったく思い出せなかった。
シノブ姉が居た気がする。思い出せるのはそれぐらいで、そもそも何に違和感を感じたのか、もうそれすらも曖昧だった。
「……え?」
不意に、頬に冷たい感触を感じて、指先で触れた。
湿った感触。それは――涙だった。
(泣いて、る?)
俺が。どうして?
分からないまま、それでも、涙は頬を伝って――
不意に、かしゃんっ、という甲高い音が、ドアの方から聞こえた。
ドアは、いつの間に開いていたのか。
開かれたドアの向こう。一人の少女が立っていた。その足元には、濡れた床と、容器と、タオルとが転がっている。
目線を上げる。
銀色の、長く美しく髪が、静かな風に揺れた。
「……シル、ファ?」
少女は、その瞳を目一杯に見開いていた。そして、何かに気づいたかのように、目を細めて肩を震わせながら、口元に手を当てて――。
そして、その小さな体が、俺の胸に飛び込んできた。
「わっ!?」
「っ……よか……っ、良かった……起きて、良かった……! 私……私……!」
「シ、シルファ?」
俺の胸に、全力ですがりついてくる少女。
啜り泣く彼女を見下ろしながら、俺は戸惑うように声を上げた。
(これは……一体?)
そもそも、何がどうなったんだったか。
混乱する俺の耳に届いたのは、はあ、という誰かの溜め息だった。
「ようやく目が醒めたか、カナメ」
「リン……?」
目線を上げる。開かれたドアの向こう、黒髪をポニーテールにした少女が、腕組みをしてこちらを見下ろしていた。
彼女が、どうしてここにいるのか。ここは自分の宿屋であり、彼女の寝泊まりしている宿とはまた別の宿だ。
混乱するままの俺に、彼女は、やや呆れたような視線を向けた。
「覚えていないか? お前は……あの『タイタン』と戦って、ほとんど死に掛けてたんだぞ」
「タイタン、と……」
はっとして、俺は自分の体を見下ろした。
俺の体は、包帯でぐるぐるに巻かれていた。おまけに、本来回復するはずのヒットポイントが、七割近くでそのゲージをうろうろさせている。
「これは……」
「あれだけの傷だ。魔法では癒しきれなかった。無理に治せば、後遺症が出る可能性もあるしな。……あとは、自然治癒を待ったほうがいい」
「そう、か……」
ようやく思い出す。
タイタンとの戦い。そしてシノブ姉との再会。……あの時、確かに俺は死に掛けていた。どんなモンスターであったにせよ、あと一撃入れられれば、俺のヒットポイントは確実に吹き飛んでいただろう。
はっとして、周囲を見渡した。
(そういえば……シノブ姉は?)
彼女の姿はない。こことは別のどこかに? それとも、まさか――。
焦燥する俺と、一瞬、リンとの視線とが合った。彼女は、俺の真意を図るかのようにわずかに目を細めて、そして首を振った。
「あの少女は、ここにはいない」
「……いない? まさか……」
死。その一文字が脳裏によぎった俺に、彼女は小さく首を振った。
「分からん。気がつけば、暗殺者たちはその姿を消していたからな。恐らく、仲間が回収したんだろう。……死んでいた者達はそのまま残されていたから、生きてはいると思うが」
「そう……か……」
生きて、いる。そう言われて、俺はほっと安堵のため息をついた。
「……カナメさんは、バカです……」
「え?」
顔を埋めながら、ぽかりと、シルファは俺の胸を叩いた。
「バカ……バカバカバカバカッ! 自分を殺そうとした人のために、命をかけるなんて――バカです、ホントに……ッ!!」
俺の胸を、非力な腕で、ひときわ強く叩いて――まるで締めつけるように強く、痛いほどに、俺の胸に縋りついた。
「カナメさんが死んだら……死んだりなんてしたら……私……! ずっと……ずっと怖くて――!」
「……シルファ」
……そうか、と俺は思った。
彼女は、目の前で大切な人を失った。
大切な、自分の姉を。二度と戻らない喪失を――彼女は誰よりも、この上なく味わっている。
(俺は……そんなシルファの気持ちを、考えてなかった)
彼女は、きっと怖いのだ。
何かを失うこと。自分の目の前から、手にしていたものが消えること。
ああ――分かる、気がする。
リンに刃を向けられていたとき。シノブ姉が死にそうになったとき。その身も凍るような感覚を、彼女も味わっていたのだろう。何度も、きっと何度も。
もう二度と会えない、という諦めにも近い確信ではなくて。
会えなくなるかもしれない、という喪失の予感。
ちくり、と痛む。
それは胸に刻まれたままの傷か、それとも、別の何かなのか。
俺の胸で泣きじゃくる彼女の肩に、そっと触れる指があった。
リンだ。その細い指が、俺から彼女をひきはがし、そっとその髪を撫でた。
「……シルファ。彼は、まだ怪我人だから」
リンの言葉に、シルファは泣きながら頷いて、その目元をぬぐった。リンはそんな彼女を、ただ優しく抱きしめて――そして、俺へと目線を向けた。
「聞きたいことは山ほどある。だが……今はまだ、休んだ方がいい」
「あ、ああ……」
そして、彼女は背を向けて――そして、一度立ち止まった。
「それと……あんなことは、もう二度と止めてくれ」
溜め息ごと吐きだすように、リンが言った。
「あの時……本当にダメかと思った。まるで機械のように戦うお前を見て……このまま消え去ってしまうんじゃないかと……!」
そこまで言って、リンは、かぶりを振りながら後ろを向いた。
「私だって……もし、お前が死んだりなんてしたら……」
「リン……」
わずかに肩を震わせた彼女は、小さくかぶりを振った。
「今はとにかく休め。何もかもは、それからだ」
「……ああ」
頷く。何もかも――そう、何もかも。
やらなければならないこと。言わなければならないこと。
山ほどにあった。どこから手をつければいいのかと迷い、そして全てを解決できるのかと焦るほどに。
――それでも。
「ごめん、二人とも。……それと、ありがとう」
とりあえずは、ひとつ。
俺の言葉に、リンは「ああ」と答え、そしてシルファは泣きながら頷いた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
二人が外に出て、そして扉が静かに閉まる。
――後に残ったのは、違和感すら感じるほどの静寂だった。
(俺は……生きてる)
掌を、ただ見つめた。
死ぬつもりはなかった。死にたくないと願った。その結果として、俺はここに立っている。だけれどそれは、薄氷の上に立っているかのような――まるで奇蹟じみたもののようにすら思えた。
手が震える。
今更ながら、恐怖が喉元へとせり上がって行く。それを呑み下して、俺は「はあ」と溜め息を吐いた。
(シノブ姉は、無事なんだろうか)
生きていると思うと、リンは言った。
でも、それも確実ではない。
確かにあの時は息があったし、ちゃんと回復剤も飲んでいた。だが、だからといって、確実に生きているとは限らない。
(いや……生きてる)
彼女を生かすために、俺は戦った。その結果として俺は勝利し――だからこそ、そう思おうと思った。
勝ったのに、戦ったのに、何も救えなかった。それでは、あんまりすぎるから。
(今度は、間に合った。間に合ったんだ……絶対、そうだ)
きっと、彼女は生きている。
――なら、シノブ姉はどうするのだろうか?
ふと、そんなことを思った。
(俺のところに……来る?)
どう、だろうか。
彼女は俺の顔を見て、俺の名前を呼んだ。……けれど冷静に考えれば、それはシノブ姉が俺を覚えている、という証明にはならない。
もし――もし、彼女が俺の知る『シノブ姉』なら、暗殺者になるだろうか。いや百歩譲ってそれを許したとして、リンに刃を向けるだろうか?
リンは、シノブ姉のことを恐らく知らない。見たこともないという様子だった。
なら、リンがシノブ姉に恨まれている……というのも考えづらい。
シノブ姉の身に何があったのか。
彼女は俺の知るシノブ姉なのだろうか。それともリンたちと同じで、俺の名を呼んだのはただの偶然なのか?
(分からないな……)
いい加減、忘れられていることに慣れたと思ったら、これだ。
彼女は、一体何者で――どうして俺のことを、俺のことだけを知っていたのか?
はあ、と溜め息を吐いた。
分からないだらけの思考に終止符を打つ。
(何にせよ、あれはシノブ姉だ)
リンをリンとして認めるように、あれは確かにシノブ姉そのものだ。それ以外の誰か、見知らぬ何者か、と割り切ることは俺にはできない。
なら、俺のするべき行動はひとつしかなかった。
布団を被って、目を閉じる。
まどろみへと落ちる、その温かい暗闇の中で――俺は、ある決断をしていた。
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