(22) - もうひとつの戦い
その結果は、ほとんど打ち合わせ通りと言えた。
煙幕とはいえ、所詮は煙だ。幻覚だの魔法だのといったものではない。
確かに霧を発生させる類の魔法はあるのだが、ここまでの濃さにはならないから、これは除外していい。
ということは、恐らく、アサシンやシーフが煙幕だろう。
スモークボール、通称『煙玉』は、シーフによって生産されるものだが、シーフやアサシン以外が使っても効果は薄い。
ここまでの濃度の視界遮蔽、しかも恐らく広範囲に渡るものとなれば、恐らく、アサシンのスキルによって煙玉を投擲した、といったところだろう。
まあどのみち所詮は煙だ。ただの煙なら、風で吹き飛ばしてしまえばいい。
メイジの習得する、風系基礎魔法のひとつ『ブラスト』。攻撃力はほとんどないが、強烈な風で敵を吹き飛ばし、近寄らせないことが出来る。
彼のスキル構成は、メイジとしては回復寄りではあったが、かろうじて習得していたのが幸運だった。
爆風に吹き飛ばされないよう踏みしばりながら、目を開く。
恐ろしいほどの速度で、煙幕が晴れていく。そして、その向こうの景色、リンが敵に肉薄しているのが見えて――。
そしてその瞬間、俺は、自分自身の失策を思い知った。
「……っ!」
ほんのすぐ、目と鼻の先。
黒衣に身を包んだ小柄な男が、ナイフを手に自分へと肉薄していた。
(しまっ……!)
先ほどの、リンを呼んだ声。
俺はあれで、きっとリンに意味が伝わるだろうと思った。そしてあの程度なら、きっと敵に意味までは伝わるまいと。
だが――俺自身の居場所を教えるのに、十分すぎるものではあったのだ。
(体勢が……立て直せない――!)
轟風は止んでいない。崩された体勢は、簡単には立て直せない。
男のナイフは、目と鼻の先だった。風の影響を、限りなく姿勢を低くして前傾姿勢となることで軽減している。
警鐘。焦燥。確信。絶望。
全てがないまぜに、俺の中を駆け巡って。
そして、そのナイフが、俺の胸に届く――届く――届い……。
「おいっ!!」
瞬間、足払いでも受けるかのように、体が宙に浮いた。
恐怖しかない浮遊感もそこそこに、地面に叩きつけられる。
「ぐ……っ!?」
鈍痛。後頭部をしたたかに打ったお陰か、ひどく眩暈がする。
だが……痛い、ということは、生きているということの証左でもあった。迷わず立ち上がる。
立ち上がると、自分の元へと突撃していた男は、やや離れたところで片膝をついていた。一体、あの瞬間に何があったのか――分からないまま周囲を見渡すと、ふと、ワンドを手に持った男と目が合った。
例の、煙幕を吹き飛ばしていた救護班の男だ。
「おい、大丈夫か?」
「……なるほど。アンタが助けてくれたのか」
今にして思えば、自分の足をすくったのは風だったような気がする。
そして、あの男が少し離れた位置にあるのも、恐らく風で吹き飛ばされたからだろう。
あの瞬間――胸にナイフを突き立てられる寸前、彼は、自分の杖が放出していた風を、こちらへと一点集中させたのだろう。
結果として俺は足をすくわれ、男は吹き飛ばされた。
それを狙ったかどうかまでは分からないが、命を救われたわけだ。
「ありがとう、助かったよ」
「礼は後だ。悪いが、俺はもう魔力切れだ。あんた――」
「分かってる」
答えながらも、腰から片手剣を引き抜いた。
俺が帯剣するのは、かつてのスチールソードではなく、新調された騎士剣だ。
といっても、きらびやかな装飾があるわけではない。騎士が任務の際に使うために設計されたという、極めて実践的な武器だ。やや重いが、耐久力や威力ではスチールソードを上回る。
俺はそれを右手で構え、左手を添える。
構えとしては、地擦り青眼――とでもいうのだろうか。地面に投げ出すように、剣先は下を向いている。
対する黒衣の男は、ゆらりと立ち上がって、手のナイフを眼前に構えた。
その構えに隙はない。素人目にもそう見えた。
そう――俺は素人だ。相手は本物の殺し屋。対して俺は、たかだか数年ゲームをやっていただけの、しがない高校生に過ぎない。
場違いに相違なかった。いくらここが、俺の庭の中にあまりに似通っているとはいえ、だ。
(だけど……ここで死ぬわけにはいかない)
俺は、生きると決めたのだから。
俺が死ねばシルファは悲しむ。俺が死ねば、その刃はリンにまで届くかもしれない。
(だから――)
必ず生き残ると、刃を握りしめた。――瞬間。
まるで弾丸のような速度で、予備動作もなしに黒衣が疾駆した。
「……っ!?」
――疾い。
驚くべき速さ、驚くべき速度だ。これがもし現実だったら、瞬きする間もなく俺は死んでいたに違いない。
だが……俺は、それを見ていた。
まるで、粘性のプールにでも放り込まれた気分だった。まるで時間の流れが歪むように、全てがゆっくりと、何もかもが見て取れるような感覚。
……ステータスが変化させるのは、何も力だけではない。
速力値。四大ステータスの一つと称されるそれは、反応速度を変化させる。もっとも、反応速度と一口に言っても、思考から行動までのレスポンスが変化するというわけではない。
いわゆる動体視力、思考速度、そして肉体的な速度――このいずれをも上昇させるのが、この速力値だ。それがいかなる技術であるのか、まるでさっぱり分からないが、上昇された反応速度は、まるで時間をも歪めるような高速反応を可能にする。
その感覚の中にあっても、男の動きは疾かった。まるで普通の人間が走っているかのような速度で、俺に迫って来る。――だが。
(反応できる!)
構えた剣で、突き出される剣を横に弾く。火花を散らせながら両者は衝突し、甲高い音を響かせた。
そして弾いた瞬間、俺は前へと踏み込んだ。
「なにっ……!?」
その驚愕が耳に届く。
だがそれすらも置き去りに、俺は剣を縦上方へと振り上げた。
鮮血が飛ぶ。
迅雷のような速度で振り抜かれた逆風一閃は、男の腕を浅く切り裂いて、紅の血を宙に舞いあげていた。
「っ……!!」
男が跳ねるように後方へ退いた。
――追撃すれば殺せる。
不意に浮かんだその考えに……だがしかし、俺の脚が動くことはなかった。
「はッ――はっ、はっ……はぁっ」
大きく息を吐きだす。
鼓動は早鐘のように、俺の胸をノックし続けていた。
(怖い……)
怖い――そうだ、怖い。
頬にかかった血を拭う。生温かくも、しかし冷たいそれは、まるで張り付くような重さでまとわりついてくる。そんな気がした。
俺は今まで、誰かを傷つけたことなんて、一度もなかった。
ケンカしたことだって些細なものだったし、殴り合いのひとつだって、今にして思えば記憶にない。
そんな俺が、今、剣を手に持って、誰かと殺し合いをしている――。
「く、そっ……!」
咬み潰すように吐きだす。
まるで滑稽だった。忌々しいほどに。神様とやらがいるとしたら、今すぐにでも呪ってやりたい。
(それでも、俺は生き残る……!)
剣を握り直す。……と、唐突に。
「はっ……ハハハハハッ!」
――なぜか、眼前で男が爆笑を始めた。
「なんなんだ、アンタ! 聞いてないよ、こんなヤツがいるなんてよォ! まったく……ハハハハッ!」
「な、なんだ……?」
唖然とする。だがこちらなどまるでお構いもなく、天を仰いで男は笑い続ける。
「コイツ、俺より疾いじゃねぇか! なんなんだ……なんなんだこのバケモノ! ハハハハハハハ……ッ!」
それは哄笑だった。
狂ったように、笑って、笑って、笑い続けて――不意に、右手を突き出した。
「”モールランス”」
(なっ……!?)
男の言葉と同時、右足を鋭い痛みが駆け抜けた。
飛び退こうとして、また痛み。見下ろせば、鋭く細い地面が、俺の足の甲を貫通させていた。
「魔法……!?」
唖然とする。同時に、しまった、という後悔。
相手は、どこからどう見てもアサシンだ。当たり前だが、アサシンは魔法を習得しない。
だがその一方で……使用できない、というわけではなかった。
サブクラス。それぞれが使用できる、もうひとつの職業。たとえアサシンであっても、メイジをサブクラスに設定しているのであれば、魔法を使うことは可能だ。
まったくもって失念していた。今まで、誰もサブクラスを使うところを見ていなかったせいなのか――。
だが、後悔は先に立たない。
事実、今俺は、極めて致命的な状況に立たされている。
……モールランス。地属性の低位魔法でありながら、極めて高速で発動する数少ないスキルだ。消費魔力は多く、射程は狭く、ダメージも極めて低い……のだが、この魔法最大の特徴は『足止め』にあった。
足を地面に縫い留めて、動けなくする。速度が命運を分けるこのオーリオウル・オンラインにおいて、動けないというのは極めて致命的な状況といえた。
そのために何度となく修正され、現在では、その効果時間は極めて短くなっている。
――だが。
「ヒッ――ハハハハハハッ!」
男は弾丸の如く疾駆する。
あの速度の前では、効果時間など無意味だ。こちらが動けるようになるより前に、三度殺してもおつりが来る。
「くそ……ッ!!」
右足は動かない。動かそうとすれば痛みが走り、対応するどころの話ではなかった。力を込めることすらも出来そうにない。
なら――左足と上半身だけで対応するしかない。
左足に体重を掛ける。それとほぼ同時、俺は剣を右へと斬り払った。
横薙ぎの斬撃。タイミングはほとんど完璧だ。だが――
ふっと、男が眼前から姿を消した。
「なっ!?」
唖然とする。
男は、飛んでいた。
跳躍、などという幅では収まらない。前方宙返りの要領で、空中に跳ねあがったその影は、俺の頭上ほどにも達している。
そして――彼の手に持ったナイフが、ぎらりと、紅色の光を宿しているのが見えた。
(スキルアーツ……!)
戦慄と共に悟る。
スキルアーツ。それは、各クラスの所有する、一撃必倒の技。
当たれば死ぬ。そう断言できるほどの威力が、その光からは見て取れた。
(死ぬ……!?)
右足はまだ動かない。頼みの剣は、既に振り抜かれた後。
後はただ、その刃が俺の首に落とされるだけだ。
男が笑みを浮かべている。凶悪で、醜悪で、まるで死神のような、恍惚とした笑みを。
「ぐっ、あ……」
死ぬ。俺は死ぬ。ここで死ぬ。
無限のように引き延ばされた時間の中で、繰り返される言葉。
俺が死ねば、どうなるのだろう。
元の世界に帰るのだろうか? それとも、全てが終わるのだろうか。この悪夢のような現実も、生きたいと思ったあの日の誓いも、何もかもを置き去りにして。
(――置き、去りに?)
思い出す。
シルファの微笑みを。リンの俺を励ます声を。
俺が、生きようと思った理由の全て。
(……俺は、生きたい)
ぽつりと、まるで、涙のように零れ落ちた。
(俺は……死にたくない――っ!!)
――そして。
リン、という静かな音。それはまるで、鈴が鳴るように涼やかな。
閉じた目を開けば……銀光を放つ俺の剣が、断頭の刃を押し返していた。
「「なっ……!?」」
その驚愕は恐らく同時。
俺の驚愕は、なぜ防げているのか、彼の驚愕は、なぜ防がれたのか。その種類はほぼ同じ、しかし立ち上がるタイミングはやや俺が早かった。
刹那ほどの驚愕から立ち上がり、鍔迫り続けていた刃を、全力で弾き返す。
中空に押し戻される形となった男は、もはや完全に無防備だった。空中で姿勢を立て直せるはずもなく、驚愕の表情のまま、地面に落ちていく。
そこへ――俺は全力で、タックルをぶちかました。
「がはっ……!」
派手に吹き飛んで、盛大に砂埃を巻きあげる。
周囲を埋め尽くすほどの砂塵が、俺も、彼も、全てを覆い尽くし――。
そして、それが晴れた時。
俺は、男の上にまたがって、剣先を突きつけていた。
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