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悠久のフォルトゥーナ  作者: 卜部祐一郎@卜部紀一
第二章 『氷刃』
20/43

(18) - 転職と審判

 『銀楯の聖槍』団長、マグディウスとの会談を終えた、その日の午後。

 俺たちは、騎士団支部の外で待っていたシルファと合流し、そのまま冒険者協会へと足を向けていた。


「へぇ……これが協会の登録証か……」

 俺の手の中にあるのは、協会で渡された一枚のカードだ。指で角度を変えて弄ぶと、太陽を反射してきらりと光を返した。


 カード、というには少々ゴツい、というかゴツすぎる。

 優に手帳を越えるほどの大きさと、ずしりと感じる確かな重量感。

 素材は全て金属、色は黒に近い灰色だ。いかにもといった無骨な雰囲気を醸し出しており、武器と言われてもさして違和感がない。

 ただ唯一そのカードの中央に、穏やかに揺らめく深紅が、宝石のごとく鎮座していた。


「綺麗ですよねー、これ」

 それを横から覗きこんだシルファが、感心したように声を上げた。俺も頷く。

「そうだな」

 とはいえもちろん、それが宝石でないことは俺も知っている。


 この中心にある赤……これは俺の血だ。カードの持つ魔力が血を結晶化し、個人判別の手段として用いられるのだという。

 この世界では割とメジャーな方法なのか……と思いきや、そうでもなかった。

 なんでも、その製造法は協会が独自に管理する特殊なものらしい。偽造を防ぐため、王家や貴族にすら秘匿されているのだとという。


「――なお、カードに宿された術式は、本人以外がその結晶に触れた時点で自壊します。紛失された場合や、他人に触れられた場合、作り直しの費用を負担して頂くこととなりますので、ご注意ください」


 スミレさんの笑顔から放たれた説明が脳裏をよぎった。ちなみに費用とやらはかなりの高額らしく、俺としては戦々恐々とするばかりだ。

(まあもっとも、インベントリに入れておけば、万が一にも紛失なんてことはありえないか)

 インベントリからアイテムを盗む方法は存在しない。別に手に持ち歩くわけではないので、落としてしまう心配もない。

 よって、紛失という可能性は限りなく低いだろう。

 それゆえに与えられるペナルティもまた大きくなる……ということなのだろうが。


「さて……それじゃあカナメ、早速だがクラスを登録しに行くか」

「え?」

 カードをインベントリに入れた俺は、リンの言葉に、思わず素っ頓狂な声をあげた。


 てっきり、カードを手に入れた時点で冒険者クラスが登録されていたものだと思っていたのだ。

 慌てて指でCを描くと……確かに、その一覧に『冒険者』の名前は無い。

 そういえば根本的に、新規クラスを取得した時に現れるはずのエフェクトが一度もなかったことを思い出す。まあこの世界でもあるのかは分からないが……。


 戸惑いながらもリンに視線を戻すと、そこには、呆れ顔の彼女が両腰に手を当てていた。

「おいおい、クラスを可視ウィンドウで開くな。せめて非表示にしておいてくれ」

「あ、ああ……」


 可視ウィンドウとは、ウィンドウを他人にも見えるようにするモードのことだ。本来、それで特別何か不都合があるわけでもない。

 だが、戦闘クラスが秘匿されている現状、迂闊にクラスウィンドウを見せれば、クラスの習得方法を知るために襲撃される可能性すらある。リンが忠告したのはそういう意味なのだろう。

 俺は慌てて、モードを不可視に切り替えると、ウィンドウが青から淡い緑へと変化した。


「で、登録しに行くってのは……?」

「決まってるだろう。聖礼堂さ」


 ……せい、れい、どう?

 また知らない単語が出てきた。なんなんだそれは一体。

 俺の疑問を知ってか知らずか、リンは前へと歩を進み始めた。慌てて俺もそれを追う。

 よくは分からないが、どうやら、クラスを習得するために、もうワンステップが必要らしい。


  ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 交易都市カリスの一角。辿りついたのは、まさしく、教会のような場所だった。

 いくつもの白い柱に支えられた白い建物、そして正面には木製の巨大な扉。

 庭園に咲く花々は、この場所の神聖さを祝福するかのごとく、冬だというのに咲き誇っている。敷地を跨いだ瞬間から、どうも妙に暖かい気さえする。


 しかし、居心地がいいわけではなかった。

 空気は穏やかというより、むしろ静謐だ。神秘的、とでもいうべきなのだろうか。美しい庭園も建造物も、これといって威圧的というわけではないのだが、居心地の悪さのようなものが拭えない。


「へぇ……これが、聖礼堂か……」

 その神聖な空気に、思わず声をひそめて感嘆を漏らすと、隣でリンが呆れたように溜め息を吐いた。

「おいおい、まさか来たことないなんて言わないだろう?」

 ……どうやら、誰しも一度は訪れるはずの場所らしい。

 リンの隣で、シルファもまた疑問符を浮かべていた。


 俺は「いや、まあ」などと適当に言葉を濁しつつ、扉へと歩を進めた。

 そして扉を開けようと手を伸ばし、ふと、ピタリと動きを止める。

 このまま扉を開けていいのだろうか。こう、何か、特別な礼儀のようなものが必要だったりなんてしないのだろうか。開けた瞬間にバッサリなんてことは……。


 しかしその逡巡も、リンがあっさりと扉を開けて中へ入ったことで氷解しまった。

(……何緊張してんだ、俺)

 自分への呆れと共に、少しの気合を入れて、俺は聖礼堂の扉をくぐった。


 内部の構造は、少々意外なものだった。

 教会のように、長椅子やらキリストの像やら、といったものは何もない。

 ただただ広い空間。そしてその中央に座すのは――薄青く断続的に発光し、宙に浮遊する巨大な鉱石。


「これは……」

 俺は驚きのあまり、言葉を失くしていた。

 美しい。それ以外の表現が見つからない。


 鉱石は薄青く、断続的に発光する正八面体だ。研磨されてはおらず、多少ゴツゴツはしているものの、その神秘性はまるで損なわれていない。

 そしてその鉱石は、まるで視えない糸で天井から釣り上げられているかのごとく、宙に浮遊したままピクリとも動いていなかった。


「……ミスリルだ」

 ぽつりと、呟くように言ったのはリンだった。

「ミスリル?」

「……そうだ。神々が大地を去る時、ただ唯一残したとされる神秘の石。膨大なエーテルが時間をかけ、ゆっくりと結晶化したもの。そして、我々にとって決して欠かせない存在」


 ミスリル……ミスリル。

 その名前には、もちろん聞き覚えがあった。

 属性武器の素材となる貴重な鉱石であり、確かクエストの時に聞いた話では、ランプも中にミスリルを入れることで発光しているらしい。


 曰く、ミスリルは固体化したエーテルであるという。エーテルというのは、いわゆる魔力マナとか、ソウルだとか言われるやつであり、時に目ではっきりと見えることもある。

 場合によっては、それは固体や液体といった状態へ姿を変え、資源として人々に使われているらしい。


 その中でも固体であるミスリルは、もっとも採取しやすく、保存に長け、それゆえに幅広く利用されている。

 大陸文化にもっとも密着した資源であり、そして同時に、純度の高いミスリルは、貴重な属性武器のための素材ともなる。……確か、そういう設定だったと思う。


「人はエーテルによって生かされ、やがて死に――その魂はエーテルの海に還る。ミスリルは、いわば人の魂の結晶でもあるんだ」

 ……そこまで説明されて、ようやく俺は合点がいった。

 ここはつまり、巨大なミスリルを祀るための聖殿なのだ。


 人の魂の源であるエーテル。そしてそのエーテルが結晶化したミスリル。それを神体として崇め祀るのはいわば当然の帰結とも言える。

 もちろん、以前俺がいた世界で、そんな話は一度も聞いたことがなかったが。


「……で? クラスが、そのミスリルに関係あるのか?」

「もちろんだ」

 カツリ、とリンが歩を進めた。


 静謐な空間を、一歩、また一歩とゆっくりと進んでいく。俺もその背を追って……気がつけば、ミスリルの目と鼻の先にまで辿りついていた。

 近くで見れば、その大きさがより分かる。高さでいえば、俺の背よりもずっと高い。圧倒的な存在感をもって、青白い結晶体は俺を見下ろしていた。


「さっきも言ったが、これは人の魂の結晶――すなわちここに、我々の祖先が眠り、そして繋がっている」

「繋がっている……?」

「そうだ。極めて純度が高く、加工さえも不可能な巨大ミスリルは、時にそういった力を持つ。エーテルの海へ……人の意識を繋げる役目をね」


 そしてリンは、宙に浮遊したまま高く聳え立つ、青い結晶体を見上げ、続けた。

「だから私たちは、自分たちの祖先に自分を見定めてもらう。正しき意思と、力を得る資格を持った時――門は開かれ、人には力が与えられる」


 ……つまり、こういうことか。

 クラスを得るための条件を満たした状態で、この石に触れれば、クラスを得られる、と。

「逆に、条件を――いや、資格がなかったらどうなるんだ?」

「何も起きない」

 リンは即答し、そして一歩前へと足を進めた。


 唐突にリンは手を伸ばし、その指先をミスリルへと触れさせた。そんなにあっさり触っていいのか、という若干の驚きに目を見開く一方で……しかし何も起きない。

 リンは何でもないようにその手を下ろすと、肩を竦めて俺の方へと振り返った。


「私には、まだ新しい段階へと進むだけの資格も、覚悟も、そして力もない。だから何も起きない」

 その声音に、どこか寂しげな色が混じっていたのは、果たして俺の気のせいなのだろうか?

 リンはふっと、安心させるように俺へと微笑んだ。

「安心しろ。君ならば大丈夫さ」

「……だといいんだが」

 苦笑しつつも答えながら、実際のところ、少しだけ不安ではあった。


 クラスを得るための条件フラグ――システム的に考えれば、それはアイテム『協会登録証』を持っていることに違いない。

 しかし恐らく……これは直感でしかないが、それだけではないのだろう。


 たとえばもしも協会が、登録証というアイテムを作っていなかったら?

 その時は、この世から冒険者というクラスが消滅するのだろうか。

 ……いいや、きっとそれはない。

 恐らくどんな形であれ、冒険者と認められた時点で、そのクラスを得る資格を手にするのだ。


 国家によってクラスの存在や取得方法が秘匿出来ているのは、恐らくそういった部分があるゆえなのだろう。システム的に『条件』が設定されているのならば、どれだけ隠しても、いつかは誰かに解明されてしまう。

 しかし、これならば簡単に『条件』を絞ることが出来ない。

 リンの口ぶりから察するのならば、資格だけではなく、認められるだけの確かな力や意思がなければならないのだから。


 言ってしまえば、それは審判だ。システムによる可否判定ではない。レベルがいくらとか、フラグがどうとか、そういう問題ではきっとない。

 資格があるのか。力があるのか。与えられる明確なイエスとノー。

 それゆえに逃れることは出来ず、それゆえに目を背けることもできない。


 俺には、果たしてあるのだろうか?

 ――シルファの姉を助けられなかった俺に。

 誰かに認められるだけの力が。


「……そういえば、シルファは?」

 振り向けば、いつの間にかシルファの姿が消えていた。

 よくよく考えれば、聖礼堂に入った時から見ていない気がする。扉の向こうで、俺達が出てくるのを待っているのだろうか?


「もしシルファをこの石に触れさせれば……奴隷のクラスが変わったりしないのか?」

「やめておけ」

 即答して、リンがかぶりを振った。

「……奴隷は、聖礼堂には入れない。そういう決まりなんだ」

「なっ……!」

 俺は絶句した。ここに来ても、やはり存在する奴隷への差別。

 しかし俺が絶句したのはそういう理由ではなかった。リンの、奴隷を卑下するような言動にだ。

 まさかリンがそういう言い方をするとは思っていなかった俺は、思わず言葉を失ってしまう。


「すまない……だが勘違いしないでくれ。これはあくまで彼ら――シルファのためなんだ」

「シルファのためだと?」

 やや語気を荒げながら言うと、リンは「ああ」と首を縦に振った。


「……奴隷には、クラスを変えられないという以外に、もうひとつ呪いがある。門を持つミスリルに、近づくことが出来ないという呪いが……」

「近づく事が、できないだって?」

 俺の言葉に、リンはその表情をやや痛々しそうに歪めた。小さくため息を吐きだし、再度首を縦に振って肯定する。


「それじゃあ……無理矢理に近づいたら?」

「……最悪の場合、死ぬことになる」

「――っ!?」


 リンの言葉に、俺は思わず息を呑んだ。

 奴隷は聖礼堂に入れない。奴隷は新たなクラスを得ることはできない。奴隷は一生、奴隷のまま。クラスを得る条件であるこのミスリルに、触れることすらも叶わない。

(なんていう……)

 なんていう、理不尽な話なのか。


 この装いを見れば嫌でも分かる。このミスリルは、人に可能性を与える、一種の神様のようなものなのだ。だからこんな立派な聖殿を建て、崇め祀っている。

 だが奴隷は、神に祈ることすら許されない。

 新たなる自分の可能性を探すことは、彼女たちにとって許されざることなのだ。

 そう言われている気がして、俺は強く唇を噛んだ。


 俺は、奴隷と言う問題に対し、幾度となく感じた歯がゆさを、それまでに倍する思いで強く噛みしめて……そして、はあと溜め息を吐いた。

「なるほどな。だから、それが分かっていて、シルファは入ってこなかったのか」

「ああ……」

 そうか、と俺は肩を落とした。


 ここでどれほど憤っても、理不尽に嘆いても、俺に出来ることは何一つとしてない。申し訳なさそうに顔を伏せるリンを、ただ苦しめて傷つけるだけだ。

 俺は無力だ。ひどく無力だ。

 何度も噛みしめた思いを、もう一度噛みしめながら……俺はかぶりを振った。


「すまない、リン。変な誤解なんかして……」

「いや、いいんだ。そこが君の良いところだと思うしな」

 リンが笑って応じると、「ありがとう」と俺も礼を言って頷いた。


「しかし……秘匿クラスを知ってる割に、子供でも知ってるようなことも知らない。妙な奴だな、君は」

「そ、そうか?」

 苦笑気味に言われたリンの言葉に、思わずドギマギしつつ答えた。


 そういえば、リンにはまだ何の説明もしていない。

 俺がどういう人間なのか。慰めてもらったくせに、その理由すらも話してない。

 もっとも話したところで、信じてくれるのか、避けられたりはしないかという不安は、確かにある。

「――リン、俺は……」

「悪いがカナメ、話はここまでにしよう」

 言って、リンはくい、と首の動きで前方を示した。


 前方、すなわちミスリルの向こう、仮面を被った何人かの男たちが見えた。もっともゆったりとした服装や、その仮面のせいで性別は判然としないが。

 彼らは一様に、両手を組み合わせたまま、まったく動いていない。

 ミスリルに見惚れてまるで見えていなかったが、どうやら最初からいたらしい。


「円環教会の神官たちさ。……あまり騒ぎすぎると、彼らに迷惑だ」

 小声で囁いたリンの言葉に、また知らない単語が出てきたが、とりあえず頷いておく。

 恐らく、この神殿を管理する信徒たちなのだろう。騒ぎすぎると叩き出されるとか、とにかくあまり愉快でないことになりそうなのは確実だ。


 かつり、とリンは足音を立てて一歩横に進み、道を開けた。

「……触れてみろ」

 促されるまま、無言で頷き――そして、変わらず青く光り続ける、巨大な石へと手を伸ばした。

 ひた、とその指先が触れる。

 感触は、至って普通の石のようだった。ただ……どことなく暖かい。そう、まるで、生まれたばかりの卵を触っているような、そんな感覚。


 そして、一秒……何も起きない。

 ひょっとして、駄目なのか。

 俺が思わず落胆しかけていた、その瞬間――

「……来たぞ」

 リンの言葉と、ほぼ同時。


 足元から、金色の光が、螺旋を描いて俺の周囲を取り囲んでいく。

 それは見覚えのある光景だった。

 そう。それは確かに、クラスを取得した時に出るエフェクトそのものだ。


 しかしかつて俺が何度も見ていたものより、遥かに長い。≪オーリオウル・オンライン≫では一秒も待たずに消滅していた。

 エフェクトは一向に消える気配を見せず、むしろその光を強めていく。

 光の帯は一条、二条、三条と増えて……やがてひとつの大きな帯となり、そして、俺の体をも金色に染めていき――。

 そして、ふと。



 全てを塗り潰す銀色の光が、俺の視界を埋め尽くした。



「――っ!?」

 初めに感じたのは、ただひたすらの戦慄だった。

 そして疑問。クラスを取得する時のエフェクトに……確か、こんなものはなかった。


 そこは、一面の銀色だった。

 正確には銀色の霧。しかしあまりに深い。眼前にあったミスリルどころか、伸ばしていた俺の手も、腕関節の先から、もうかすれて見えなくなってしまっている。

 そして……不意に。


 ザザッ、と、俺の視界がブレた。


 まるでノイズのごとく走った銀色のそれは、一瞬だけ俺の視界を埋め尽くし、そして消えた。

 気がつけば――伸ばしていた俺の腕も、深い深い霧に包まれて、もう見当たらない。


 ……あるいは。

 俺の体は、もうこの霧に溶けてなくなってしまったのかもしれない。

 静かな予感が、そして確信が、俺の心を満たしていく。


 ただ……悲しくはなかった。

 どうしてなのだろう。感じるのは、あまりにも懐かしい、ひたすらの郷愁。


 そして、深い深い、もう何も見えない銀色の霧の向こう。

 小さな人影を――

 少女の姿を。……見た。


 ――私は……ずっと……――


 それはただのシルエット。

 あるいはただの幻覚とすらも思えるほどに不明瞭で、そして朧げだ。

 聞こえる声も、砂嵐のようなノイズの塊のようで、人の言葉と判別することも難しい。

 それが女性なのか、ましてや人間なのかも判別できるはずがない。

 しかしなぜか。

 俺は、彼女は少女(・・・・・)なのだと(・・・・)思った(・・・)



 ――私は、ずっと……貴方を待っていた――



 雷に打たれたような衝撃が、俺の魂を蹂躙した。


 切なく狂おしく愛おしい、ひたすらの激情。

 俺を呼ぶ声は、ただ万感を込めて。

 ……しかし、その声は遥かに遠い。


 少女の声に、俺は答えを返すことすらできなかった。

 もはや……ああ。

 俺には、口すらも存在しなかった。

 その声を聞く耳も、もはやないのだ。


 だが、それでも――。

「俺は……」

 手を伸ばす。

 肉体ではない。魂で。ただ触れあうために。

 理由も分からない衝動に衝き動かされ、俺はいつしか、前へと手を伸ばしていた。


 そして。

 ……まるで、少女の優しい腕に抱かれるように。

 銀色の光は、遥か彼方へと、少しずつ遠のいて――。


  ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


「カナメっ!!」

 その声に、俺はようやく自分の状況を把握した。

 床が近い。気がつけば俺は、片膝をついて項垂れていた。今にも倒れそうな俺の体を、リンの腕が支えている。


「な、ん……?」

 まったく理解できない状況の中、リンが俺の顔を心配そうに覗きこんできた。

「大丈夫か? 急に倒れたりして……」

「あ、ああ……」


 どうにか頷き、立ちあがる。

 一瞬足がふらつきそうになるが、気力で踏みとどまり、深く息を吐いた。妙に体が重い。どうやら、急に倒れたというのは本当らしかった。

「本当に大丈夫なのか?」

「ああ……大丈夫。問題ない」

 なおも心配そうに俺を覗きこむリンに、俺は小さく手を振って、頭上を見上げた。


 そこには、一瞬前までと変わらず存在する、薄青く光る巨大な石。

 ざらついた表面の、そのひやりとした感触を思い出そうとして……俺は不意に首を捻った。

(何か……忘れているような……)

 いいや、何も忘れてなんていない。


 俺はリンと聖堂に入って、クラスを得るために石に触れ、そして実際にクラスを習得した。

 そのことははっきりと覚えており、そしてそこから今に至るまで、忘れていることなんて何もない。

 確信しながらも……だが、胸の奥にあるわだかまりが、溶けてなくならない。


 何か重要なことを忘れているような、微かな焦燥感。

 その理由も、その意味も、何も分からない。

 新規クラス取得を示す緑色のアイコンが、虚空に溶けて消えていくのを視界の端に収めつつ――俺はただ、頭上に佇む石を、言葉もなく見上げていた。


 石は黙して語らぬ。人でなくば当然のこと。

 失った何かがあったとして、ただの石にその答えを求められるはずもない。

 だけれど、ただ……惹かれるように。

 吸いこまれるように、ひたすら見詰め続けていた。


「……カナメ?」

 リンの名前を呼ぶ声にはっとして、俺は小さくかぶりを振った。

「なんでもない。行こう、シルファが待ってる」

「あ、ああ……そうだな」


 躊躇うように答えたリンの背に続いて、俺もまた石に背を向けた。

 数歩前に進んで、ふと、意味もなく振り返ると。


 青く浮かぶ石の向こう、ずっと向こうに。

 どこか懐かしい幻想が見えた……そんな気がした。

お久しぶりです、一週間ぶり更新です。

そして投稿しようとしたら、なぜか執筆中小説ごと消えたというビックリ悲しい事件が……。推敲前のデータを取っておいて助かりました。ふう。


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