(13) - 奴隷契約
「……で。本当に、それでいいのか?」
「はい」
元気に頷いた銀髪の少女を見て、俺は小さく溜め息を吐きつつも頭を抱えた。
場所は、交易都市カリスの片隅にある店『風見鶏亭』だ。昼食が出てくるのを待つすがら話した俺の言葉を、しかし少女は笑って肯定していた。
……ここは、かつて俺が≪オーリオウル・オンライン≫と呼んでいた世界。フォルトゥーナ大陸の片隅にある町、交易都市カリスのその片隅、裏路地にひっそりと立つ寂れた店である。
今から四日前。目を覚ませば、俺はなぜかこの世界……VRMMOであったはずの≪オーリオウル・オンライン≫に酷似した世界に放り込まれた。
しかし今ではもう分かった事だが、この世界はゲームなどではありえない。脱出は出来ず、人が死ねば当然のように死ぬ。そして人々は、ここがまるで現実だと証明するかのように、実に様々な生を営んでいた。
この世界が何なのかは、俺には分からない。俺がここにいる意味も。ただ分かっているのは『俺はきっともう戻れないだろう』という一つの真実。
だけれど、この世界が見ず知らずのどこかではなく、かつて俺が毎日を過ごしていた≪オーリオウル・オンライン≫の世界に酷似していたことは、確かな救いではあった。
そして先ほどから、俺の目の前で、ナイフとフォークを握りしめたまま「ご飯はまだですかね?」と全身で表現している、流れるような銀髪の食いしん坊娘。
彼女の名前はシルファだ。モンスターに襲われていたところを、俺とリンで助けた奴隷の少女である。もっともその時に彼女の姉は死に、俺はそれを守れなかったのだが――。
『忘れられないのも、確かです。気にしてないっていうのも、恨んでないっていうのも、どっちも本当にはならないんだと思います。けれど……それでも、私を救って頂いたことだけは真実ですから』
昨日の花火の後、彼女は俺に「ありがとう」と言った。
彼女を救おうとしたつもりなどなかった。救えたつもりもなかった。
けれど彼女の言葉で、ほんの少しだけ俺の心は軽くなった気がした。たとえそれが、彼女の単なる強がりだったとしても。
本当に、心優しく、そして強い少女だと思う。俺には真似できそうもない。
しかし奴隷という身分は、彼女の心の強さとは裏腹に、自由へ羽ばたくべき翼を手折っていた。
彼女の首元に刻まれている青の刻印は、彼女の身分たる『奴隷』を示す。奴隷は、曰く一生奴隷のままであり、そこから逃れることは不可能だ。
それゆえリンの発案により、俺は彼女を買い、彼女の主人になるということになったのだが……。
(しかし、本当に俺でいいのか?)
それは、先ほど少女にぶつけた質問そのままだった。
奴隷、などと言われても、俺はつい四日前までただのプレイヤー、そして現実ではただの高校生でしかなかったのだ。
いきなり奴隷だとか主人だとか言われても、どうすればいいのかさっぱり分からない。そんな初心者な俺よりも、マシな人間など他にいくらでも……。
「お待ちどうさん」
アフリカンな肌黒の男が、にょきりと横から腕を伸ばし、テーブルに料理を置いた。言うまでもなく、この店のマスターである。
食欲を刺激する香りに、シルファの目が輝いた。
正直、腹が減ってるせいで真面目に聞いてなかったんじゃないか、と思わざるを得ない。今日は起きるのが遅かったから、確かに朝は抜いているのだが。
目を輝かせながら……しかしシルファは、肩をすくませる俺に、ちらちらと目線を向けてきた。
「ん?」
「その……あの……」
少女は何かを言おうとして、口をつぐむ。そして俺をちらちらと見ながら……しかし、テーブルに置かれたナイフにもフォークにも、手を伸ばそうとしない。
「? 食べないのか? 冷めると思うが……」
「おいおい」
横合いから呆れたように口を挟んだのは、この店の店主であるマスターだった。
なお別に、彼が『マスター』というジョーク直球な名前、というわけではない。
以前の世界……即ち俺の居た≪オーリオーウル・オンライン≫から、俺はずっと彼のことをそう呼んでおり、ただ名前を知らないだけのことである。
まあそれで今のところ困ったことはないし、正直これからもそれで通そうと思っている。
「?」
再び俺が首を傾げると、今度こそ、呆れたと言わんばかりに肩を竦めるジェスチャーをして、少女――シルファの方を指差した。
「彼女、お前さんの奴隷だろう? だったら、食っていいって言ってやらにゃ、いつまで経っても食えないぜ」
「…………。なるほど」
胸糞悪い。正直な感想はそれだった。
もっとも、マスターに悪気があるわけではないことなど分かり切っている。しかし、奴隷という存在は、かつて現代日本に生きていた俺にとって、あまりに想像の埒外のものだった。
それを生みだしている社会の構造……それそのものに悪態をつきながら、俺は手を振って、そして努めて笑いながら言った。
「食っていいぞ。好きなだけ食え」
「い、いいんですか……?」
「何を躊躇うっていうんだ。俺が食えって言ったら、食っていいんだろう?」
「は、はあ……」
頷きながらも、しかし少女の表情は冴えない。というよりも、むしろ戸惑っている。
「? なんだ、今度は? まだ何かあるのか?」
「あ、いえ。ただ……その……こんな凄いご飯なんて、本当にいいのかと……」
「凄い、って……確かにここのマスターは腕はいいけど、でもメニューは普通だぞ?」
俺の言葉の通り、あくまでもメニューは、このフォルトゥーナで食されるごく一般レベルのものだった。まあ「かつての」という前置きがまたもや付いてくるわけだが……その辺りまでは変わっていないだろう。
そこまで考えて、ふと俺は思い至った。
この少女が奴隷だったということ。奴隷商人に買われ、そして飼われていたということ。
奴隷という身分の生活水準は分からないが……しかし身なりや言葉から、とても厚遇されていたとは思えない。あるいは、ご飯すらもまともに食べられなかったのか。
(そういや妙に痩せてるしな……)
再びの気分の悪さに俺は顔をしかめながら、はあ、と溜め息を吐いて、シルファへと目線を向けた。
「さっきの質問だが」
「は、はい?」
「アンタの主人についてだ。本当に俺でいいんだな?」
俺の言葉に、シルファは今度こそ俺の目を見て、そしてふっと優しく微笑んだ。
「はい。私のご主人さまは、カナメ様を置いてありません。強くて、優しくて、私のことをこんなに気遣って下さって……そんな方に買って頂けることほど、幸せなことはありません」
奴隷という人生が、幸せだなんてわけがない――胸中でそう感じながらも、俺はしかし「そうか」と言って頷いた。
幸せの価値など人それぞれだ。彼女がそう言って笑うのなら、俺が否定できることなど何一つとしてない。
「なら――」
「もべうっ!?」
俺は手元にあった麦パンを、ねじ込むようにしてシルファの口に押し込んだ。
「食え。遠慮することなんて何もないんだ」
「……ふぇ、ふぇも」
「いいから食え。冷めちまったらもったいないだろ? なんなら、命令ってことにしちまってもいい」
俺の言葉に、それでもシルファは逡巡していたが……やがて空腹に敗北したのか、口に詰め込まれたパンを咀嚼した。
そしてそれから少女は何も喋らず、ひたすら食事へと没頭した。
よほど腹が減っていたのか。女性らしからぬ豪快な勢いで皿を平らげていく少女を見つめながら、俺はふうと苦笑しつつも振り返った。
「悪かったな、マスター」
俺がそう言ったのは、食卓の横で少し驚いたような顔を浮かべていたマスターに対してだ。俺の言葉に、マスターは「いいや」と首を振った。
「金は貰ってる。嬢ちゃんの食べっぷりはいい。謝られることなんざ何もねぇとも」
そう言って、にっと笑う。人好きのするその笑みを、俺はひどく久々に見た気がして――郷愁と気恥ずかしさで、思わず目を背けた。
このマスターと俺は、かつて、俺がこの世界に飛ばされる前からの知り合いだった。
しかし、彼は俺のことなど覚えていない。それを知った当初の俺は、この店で暴れ、そして外に叩きだされる羽目となってしまったという、少々ばかり恥ずかしい経緯がある。
再びこの店の扉を潜るには、随分と勇気が必要だった。しかし戸を開き頭を下げた俺を、彼は笑って赦してくれた。曰く――「人間、生きてりゃいろんなことがある」。
そう。色々なことがある。色々な人生がある。
シルファのように、奴隷として運命を縛られる者。そして俺のように、己の居たはずの世界とは、どこか違う世界に飛ばされる者。
総じて理不尽と称されるそれらの壁に、ぶつかった時の反応は人それぞれだ。
挫折するか、苦悩するか、絶望するか――それとも前に進むのか。かくいう俺も、リンやシルファが居てくれなければ、きっとこうして前には進めなかった。
……いや、本当に前に進めているのかは、今でも分からない。
ただ俺は生きると決めた。しかしこの理不尽を受け入れるつもりはない。いつかまた悩み、苦しんで、元の世界に帰りたいと足掻く時が来るかもしれない。
だが絶望して、ただ立ち止まり何もしない。そんな風にはしたくない。それでは、こんな俺の手を取ってくれたリンやシルファに、あまりに失礼だ。
どれほど悲しくとも、俺は生きる。
逃れられないなら、せめて、俺がこの世界にいる意味を求めて――。
その選択ならばきっと、あいつらは笑って許してくれるだろうから。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「はふぅー……お腹いっぱいですー」
「食い過ぎじゃないか……?」
『風見鶏亭』を背に、歩きながら半眼で言った俺の言葉も、所詮馬の耳に念仏だ。シルファは夢心地といった風情でお腹をさすっており、ろくろく聞こえた風もない。
(幸せそうだから、まあ良しとするか……)
若干苦笑しつつも裏路地を抜け、表通りへ向かう。
がやがやと観光客やら商人やらで賑わう人波を、かきわけつつ歩いていく。シルファが付いてきているか不安だったので振り向けば、意外にも、彼女は俺のすぐ後ろにぴたりと引っ付くように追随していた。
どうやら、ようやくオートパイロット状態から復帰したらしく、俺を見上げながらふと彼女が首を傾げる。
「あの……どこへ行くんですか?」
「やっぱり聞いてなかったか」
苦笑した俺に、「はう」と少女が頬を朱に染めた。
申し訳なさそうに俯く彼女に、俺はすっと前方を指差して。
「噴水でリンが待ってる。とりあえず、話はそっちでしよう」
はあ、と頭の上にクエスチョンマークを浮かべているシルファを尻目に、俺は人混みをかき分けて、前へ前へと進んでいく。シルファも遅れまいと、俺の後ろを追随した。
「ところで――」
「はい?」
ふと口を開いた俺は、しかし、言うべきかどうかを迷って、視線を虚空に彷徨わせた。
……いや。彼女自身、そこまで気にしてる風でもないし。俺が気にしすぎるのも悪いか。そう決心して再度口を開く。
「さっき、食べるのを随分躊躇ってたが……その、前はどうしていたんだ? ちゃんと食えていたのか?」
俺が言うと、やはりさして気にした様子もなく、シルファは「はい」と頷いた。
「食べさせてはもらってました。といっても、贅沢なものじゃありませんでしたけど……」
「贅沢なものじゃないって……」
「はい。カビの生えたパンとか、腐ったお魚とか、あと落として食べられなくなったものとか」
……それは残飯だろう。
俺は吐気のする思いで、胸中に吐き捨てる。しかし声には出さなかった。彼女の表情や声色を読む限り、奴隷にとってそれが常識なのだろう。
しかし俺の表情に何かを読みとったのか、シルファは「ああ……」と何か得心したように頷いた。
「そういえばご主人様は、奴隷について詳しくなかったんでしたよね?」
「あ、ああ。……いや、俺そんなこと言ったか?」
少なくとも記憶にはない。言うと、「いいえ」とシルファは苦笑して首を振った。
「リンさんが教えてくれたんです」
なるほど、そういうことか……と考えながらも、そういえばリンにも言ってないと気づく。まあ恐らく、空気で察したのだろうのだろうなと苦笑した。
俺はリンやシルファに、詳しい説明をしていない。
俺は恐らく、この世界の住人ではないこと。かつて別の世界に居て、そこにはリンに余りにも似た奴が、そして俺の仲間がいたこと。
いつか説明しなければならないとは分かっている。ただ今話したところで、信じてくれるかどうか……。
「それで……奴隷についてなんですが」
はっと気がつけば、シルファが俺の隣に並んでいた。いつしか人混みも抜けている。自分に若干呆れつつも、歩きながら隣で彼女が続けた。
「奴隷は基本、自分で行動することはないんです。もちろん、自分の世話は自分でしますけど……食べろと言われるまで食べられないし、喋れと言われるまで喋れません」
言って、シルファは少しかぶりを振って俯いた。何かを思い出しているのだろうか。
しかし俺が口を開くよりも早く、彼女は顔を上げ、俺の方へと目線を戻した。
「私たちはみんな、御機嫌を取るのに精一杯で……。私たちは人間じゃないんだと、何度も何度も教えられました」
「……そうか」
奴隷、という存在が、このフォルトゥーナ大陸では当然のように実在している。
分かっていたはずのその事実に、俺は再び顔をしかめた。
「私は大丈夫です。ご主人様」
彼女はそう言うと、優しく笑った。
「ご主人様のような人と出会えました。逆に贅沢過ぎて怖いぐらいです」
「……そうか」
彼女の言葉に、怯えも、ましてや演技も見当たらない。もっともそれこそが、彼女の言う『御機嫌を取る』ということなのかもしれない。
だがしかし、それでも……俺はその言葉に、どこか救われたような気がした。
はっと何かに気づいたように、シルファは顔を伏せた。
「……す、すみません。私、なんだか偉そうなことを……」
「そんなことはないんだが……」
言われてみれば、確かに、彼女は奴隷らしくない気がする。意見は言うし、ご飯は食べるし、感情はすぐに顔に出る。素直というべきか、それとも単純というべきだろうか。
俺は、申し訳なさそうな表情で顔を伏せているシルファに、首を振って笑った。
「いや、いいよ。むしろこれからも、そうしてくれた方がありがたい」
「でも、ご主人様……」
「あとそのご主人様も禁止。カナメでいいよ。そう呼んでたじゃないか」
あの時はまだ契約してませんでしたし、などとモゴモゴ言っているシルファに、俺は指を突きつけて「いいな?」と念を押した。
奴隷には奴隷の事情がある。風見鶏亭のマスターが言ったように、彼女には彼女の人生や運命があり、考えること、想うこともあるのだろう。
しかし出来るなら、俺は彼女の好きなように生きてもらいたかった。今は出来ないかもしれないが……いつか誰かに恋をして、家庭を持って、ただ幸福に生涯を終えてほしい。奴隷ではなく、人間として。
運命なんてものはくだらない。いつかそう笑い飛ばせるように。
俺はそのための手伝いをしてやりたかった。あの日、俺を慰めてくれた、ほんの少しの恩返しとして。
これはきっと、そのための一歩なのだろう。
シルファは立ち止まり、数秒ほど沈黙して……そして小さく頷いた。
「……分かりました、カナメさん」
シルファが、そう優しげに、そしてどこか嬉しそうに笑うのを見て。
俺は、それだけで十分だと思った。