(10) - 彼方からの声
夕闇の中で、目を開いた。
宿屋で目を覚ますのは、ここに来て二回目だった。ごく当然の如く、昨日と何も変わっていない光景。
二十四時間制限など、まるで最初からなかったかの如く……俺を目を覚ました。
なぜか、妙に暖かい感触に包まれて。
「……えっ?」
思わず素っ頓狂な声を上げたのは、起きたらもう夕方だったから、というような理由ではない。
いや確かに、若干の由々しき事態ではあるかもしれない。何せ、昨日からおよそ半日以上は眠っていたというわけであるのだから。寝すぎて体が少し重い気がするが、そんなものなど既にどこかへ吹っ飛んでしまっていた。
いや、それはともかく、今は置いておいて。
そうではなくて……俺が驚いた理由は、要するに、俺のベッドの中になぜか銀髪の少女がいたからだ。
「う、んん……」
少女が身を捻る。それに反応してビクゥ、と身を跳ねさせながら、状況を整理すべく記憶を巡らせた。
銀髪ロングの、それも割と美少女。
この場合問うべき命題はひとつだけだ。
それがなぜ、自分と一緒のベッドで眠っているのか?
――そう。
それは確か、あの夜……。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「……彼女は、もう眠ったのか?」
嗚咽の止んだ、暗闇と静寂の中。
不意に発した俺の問いに、「ああ」と背後でリンが答え、その横に腰を下ろした。
……Cランクモンスター、≪ジェネラルリザード≫三匹により、ある商隊が襲われた事件。
それに偶然遭遇した俺とリンは、彼らを救うべく加勢したが……しかし救うことが出来たのは、たった一人の少女だけだった。
そして、目の前で燃え盛る紅。それは死者たちを弔う、炎であった。
炎は赤々と燃えあがり、空に灰を運んで行く。死者の血と肉を、そして無念をも焼き尽くして。
「……人は、死ぬんだな」
ぽつりと漏れた俺の言葉は、俺の本音としては当然でも、リンとしては意外だったのだろう。
驚いたように目を見開いて俺を見ると……しかし不意に、目線をそらした。
「人死にを見るのは、初めてなのか?」
リンの問いに、俺は応えることは出来なかった。
空を見上げる。そこには変わらず存在する、白く濁る円環≪オーリオウル≫。
あの円環が証明するように、ここが本当に≪オーリオウル・オンライン≫の中ならば……人が死ぬ光景など山ほど見てきた。
そして、何も思わなかった。それは本当の死ではなかったから。
無数の青い光の粒と共に虚空に消え、そして十秒後には、自分の町へ戻る。
それがこの世界、≪オーリオウル・オンライン≫での死であった。そのはずだった。
だけれど――
(……この世界では、人が死ぬ)
それはきっと、どうしようもない事実であった。
俺は、掌の中のナイフで、自分の指を切ってみた。
わずかなダメージ。視界の左端にヒットポイントのバーが浮かび、一ドットほどが削れるのが見えた。それはヒットポイントの総量からみれば、ほんのわずかなものでしかない。そして自動治癒によって、やがてヒットポイントは回復し、傷も消える。
……だが、それに何の意味がある?
たとえば腕を落としてヒットポイントの七割を減らし、その後回復させたとして……恐らく傷はふさがっても、腕までは帰ってこない。
そして回復不可能な傷を負ったとき、きっと、このヒットポイントはゼロになるのだ。
現実と同じだ。傷はふさがるかもしれない。しかし、失ったものまでは戻らない。
それはもはやゲームではなかった。圧倒的なリアル。圧倒的な喪失。圧倒的な、死。
「人は……死ぬ……」
それはごく当たり前のことで、そして、ごく自然なことなのだろう。
しかしこれほどまでにおぞましいものなのだと、十七年の人生の中で、俺は初めて知った。
それゆえに護衛のない外出は禁止されていて、それゆえにリンは俺を護衛すると言いだして、それゆえに、あの時、リンは俺に出るなと言ったのだ。
(これは、本当に……ゲームなのか?)
ちくり、と、ナイフでつけた傷が痛んだ。
VRMMOに本物の痛みは存在しない。そんなものがあっては、もはや娯楽などではないのだから。
しかし、ここには、確かにある。
痛み。喪失。恐怖。生と死。それは即ち、ゲームという枠を越えたリアル。
それを、果たしてなんと呼ぶのか。
(――現実、だ)
そう。ここは現実なのだ。
馬鹿馬鹿しい話だと思う。
ここは≪オーリオウル・オンライン≫の中なのだ。ならばゲームの中なのだ。そのはずなのだ。
だがしかし……これが現実なら、全て納得がいく。
町の様子を思い出す。今ならば分かる。≪オーリオウル・オンライン≫にいるプレイヤーは皆、戦士や鍛冶師、最低でも商人だ。一般市民として生活するプレイヤーなど一人もいない。
しかし、違った。きっとあの街に住む人間の大半は、恐らく、普通に働いて普通に死んでいく、ごく普通の人生を送る人々なのだろう。
逃避はできない。都合のいいやつも存在しない。
人が泣き、笑い、暮らし……そして時に時に死ぬ。
同じだ。まったく同じだ。ここは、現実とまったく同じ。
「完成された……世界」
それはもはやゲームなどではない。
……もう一つの、現実なのだ。
深く、深く息を吐いた。俺は空を、星空を、ただ見上げて……。
そして気がつけば、眼前で燃え盛っていた炎はいつしか消えていた。
リンがスコップで灰を拾い集め、いくつかの袋に分けていく。……恐らく遺骨だろう。
そしてそのうちのひとつ、小さな袋に詰められたそれを俺に渡してきた。
「それを、あの少女に渡してやってくれ」
「……お姉さんの分か?」
「その中に入っているかは分からないがな……納得はしてくれるだろう」
それなら、お前が渡した方がいいんじゃないか、という俺にリンは首を横に振った。
「彼女、見ただろう? あの枷……奴隷だよ」
「奴隷?」
「他の町から売られてきたんだ。……一応、私も騎士のはしくれだからな。奴隷を連れて町に入るわけにはいかない」
その言い方に若干むっとする俺に、小さく彼女は苦笑して手を振った。
「勘違いするな。彼女がどうこうの話じゃない。彼女を連れて町に戻れば……逃亡奴隷を捕縛してきた、とでも思われそうだからな。それではあまりに不憫だ」
そうか、と俺はそこでようやく頷いて……格納すべくインベントリーを開いたが、しかしやめた。これは、きっと俺のインベントリーに入れるべきじゃない。
「奴隷……ね」
振り返り、少女が眠っているだろうテントを見やる。
もちろん、その意味は分かっている。しかし本物の奴隷を見たのは、現実どころか、この≪オーリオウル・オンライン≫の中でも初めてだった。
「……彼女は、どうすればいい?」
「出来れば、私が引き取りたいが……」
リンはしばし言葉を濁し、ふと俺の方をみた。
「……まあ、君が引き取るのが一番か」
「自由にさせるわけにはいかないのか?」
俺の純粋な疑問に、しかしリンは「いや」と首を横に振った。
「彼女の首元に、魔法でつけられた奴隷の印がある。それがある限り、自由に歩いていれば逃亡奴隷扱いだ。殺されても犯されても、誰も文句は言えない。そしてその印は……誰にも消すことは出来ない」
「…………」
実に胸糞の悪い話だった。
奴隷は何かの理由で売られるか、あるいは自分から望んで奴隷になるらしい。
そして奴隷になれば……その生涯において、別の人生はありえない。
体に刻まれた印が、奴隷を一生縛り続けるのだ。
「だから、君が主人になればいい」
「どういうことだ?」
「商隊は全滅した。恐らく奴隷商人だろうな。なら今、彼女はどこにも買われていない状況なわけだ」
言われて、なるほどと俺は頷いた。彼女を俺が買ったことにしておけば、少なくともすぐ殺されることはない。
そういうことかと承諾すると、同じようにリンも頷き、肩をすくめた。
「それに……まあ、奴隷ひとつでそんな顔をする君だ。彼女を悪いようには扱わないだろう」
そう言って、リンは少し微笑んで……俺はなぜか恥ずかしくなって、顔を背けてしまった。
……こいつはリンじゃない。
かつて自分が唱え続けていたその言葉は、今はどこかへと霧散していた。
確かにこいつは、あの通りのリンじゃないんだろう。
だけれど、こいつの中身はきっと、真っすぐで一途で、馬鹿正直で。俺が信頼して背中を預けた……あのリンと同じなのだ。
だからこいつのことも、少しは信じてみようと俺は思っていた。
こいつは、あの通りのリンではないけれど……それでも、リンはリンなのだから。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
そして、俺は銀髪の少女を背に担ぎ、宿に辿りつくと同時に熟睡してしまい――。
かくして、この状況なわけだ。
宿についた時には既に早朝だったわけで、むしろ宿屋の人が受け入れてくれたことの方が奇蹟的なのだろう。しかし――。
(どうすっか、こりゃ)
穏やかな寝息を立てながら眠る少女に、はあ、と溜め息を吐きながら、思う。
起こすべきかな、と迷いつつも手を伸ばし、ふと……寝返りを打つと同時に、小さく聞こえた言葉に、俺はその動きを止めた。
「――ねえさん……」
「…………」
それは――
もし俺があの時、迷わずにすぐに飛び出していたのなら、救えていたかもしれない命。
彼女に、失わせずに済んだかもしれない、大切な命。
俺は、小さく唇を噛んだ。しかし俺がどれほど後悔しても、時は巻き戻らない。俺は二度と彼女の姉を救うことはできず、失われた命は、二度と帰ることはありえない。
これはゲームなどではなく、現実なのだから。
「……すまない」
謝ってすむものではないと、分かっていても。
「俺が……俺が、もっと強かったら……」
逃げず、逃避せず。
俺がもっと、現実に向きあえていたなら。
そうしたら、彼女の姉は、死なずに済んだんだろうか?
この世界で人が死ねば、本当に死ぬ。
きっと彼女の姉は蘇らない。
あの日、俺に声をかけてくれた女性プレイヤーも、もう蘇らない。
俺は、逃げ出したかった。
この世界から逃げて、もう一度、あいつらに会いたかった。
そしてその俺の弱さが……彼女の姉を、殺したのだろうか?
分からない……分からない……。
(分からない――)
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
私が目を覚ましたとき、もう、太陽は地平線へと沈みかけていた。夕闇が、この宿屋の一室をも照らしているその中で……私は目を覚ました。
いや……正確に言えば。
起きようとして、起きられなかった、と言えばいいだろうか。
私のすぐそばには、男の人がいたから。
生まれてこの方、男の人になんて触ったことがない私は、思わずびっくりして、とりあえず寝たフリをしてしまった。
多分、きっと、気づかれてないはず。
そう思いながら、私は、ただひたすらに目を閉じる。
……悲しい、夢を見たと思う。
いいや、夢じゃない。姉をかばおうとして、姉さんは死んだ。
昨日からずっと繰り返し、その夢ばかりを見ていた。
トカゲ男の振り下ろした、巨大な剣が……姉さんの体を叩き潰す、あの瞬間。
あんな光景は、忘れたくっても忘れられるはずがない。痛くて、痛くて、痛くて苦しくて、私はずっと、ただ何もできず泣き叫んでばかりいた。
――けれど。
私は、死ななかった。
青色の髪の男の人が……私を助けてくれたから。
嬉しかったのか、と聞かれれば、違う、とも思う。
私は姉さんが大好きだったから。姉さんがいなくなったこの世界で、どう生きればいいのか分からない。
今日の昼。
たまたま目覚めた私のもとにやってきた黒髪の女の人は、私を助けてくれた、その男の人に買ってもらいなさい、と言った。
男の人はぐっすり眠っていたから知らないだろうが……正直、それも嬉しいとは思わなかった。
幸運なことだっていうのは分かっている。
奴隷商人は死んで、一人になった私を、この人たちは助けようとしてくれているのだ。
それは分かっていた。分かっていた、けれど――。
(……姉さんは、死んだ……)
死んだ。死んだのだ。姉さんは、あの人は、もうこの世のどこにもいない。
私たち二人はいつでもどこでも一緒だった。
何もできない私を、いつも姉さんは助けてくれていた。親に、借金のカタに売られたときも、泣きわめく私を姉さんはいつも慰めてくれた。
――もう、駄目ねえ。シルファは、私がいないと、本当に駄目なんだから。
ああそうだ。その通りだ。姉さんがいなかったら、私は何もできない。
だからあの時、姉さんの代わりに、私が死ぬべきだった。
それが駄目なら……せめて一緒に死ねばよかったんだ。
だから、私は、素直に嬉しがることも、感謝することもできなくて。
ふと、もぞり、とベッドの上で男の人が動いた気配がした。何かされるのかもしれないと、思わず身を固くする。そして……
「……すまない」
絞り出すように、彼はそう言った。
(――え?)
不意にわけがわからなくて……私はその時、きっと呼吸さえ止めていた。
「俺が……俺が、もっと強かったら……」
――もっと強かったら。君の姉さんも、助けてあげられたかもしれないのに。
(ああ……)
そうか、と、不意に全身から力が抜けていく。
冷静に考えれば。あれは仕方のないことだったのだ。
他の誰かにそう言われた時、私はそれを認められないだろう。けれど、でも客観的に見れば、確かにあれは仕方のないことだったのだ。
たとえ誰だって、姉さんは助けられなかった。
なのに……なのに、それでもこの人は……。
(こんな強い人でも……苦しんでる)
そんな意外な気持ちと、そして、この人はなんて優しくて、なんて悲しそうなんだろうと、そう思った。
なら、私は何なのだろうか?
弱くて、どうしようもなくて……そんなことに悩んで。姉さんが死んだぐらいで、私も死んだほうが良かった、なんて。
私を必死に助けて、それでもまだ必死に苦しんで、悲しんでくれている人がいるというのに。
私は……なんて贅沢なんだろうか?
溢れそうな涙をこらえて、私は目を閉じ続けた。
ここで目を開いてしまえば……きっと、彼に失礼だろうから。
そして、不意に。ずっとずっと向こう、どこか遠い、遥か彼方で。
――生きて、と。
そう告げる姉の声が、確かに聞こえた気が、した。
それから三十分後。
ようやく落ち着いた私は、息を吐きながら目を開いた。
次回、第一章完結です。
しかし推敲に時間がかかってしまい、ストックを作る余裕がなく……。
申し訳ないのですが、第二章掲載にはちょっと時間を頂きたいと思います。
というか本当は一章分だけで完結させるつもりだったんですが、欲が出てしまい、まだまだまだまだ続きそうです(笑)