束の間の平穏・某日
店の改装中は、ことさらに暇を持て余す。
辰巳にとって最大にして最後のイベントだった「北海道旅行」という克美の誕生日イベントも終わってしまい、何で気を紛らせようかとタウン情報誌を眺めながら一人密かに唸っていた。
辰巳がリビングで頭を抱えるその向こうでは、克美が鼻歌混じりにアップルパイを作っている。営業を再開したときにまた訪れてくれたお客への感謝の新メニューとして店に出したいから、らしい。
『時間短縮と思ってパイシートを使ってたじゃん? でも、自分で作って冷凍保存しても大丈夫かどうか試してみたくって』
林檎の調達先を替えるそうだ。「辰巳は無駄に高い食材ばかり選ぶから経費のムダ!」と叱られた。
なんでも自分でやるようになった。独りで考え、試してみる。そんな度胸もついて来た。今も手伝おうかと言ったのに、「自分でやらなきゃ意味がない!」といきり立った顔で速攻拒否られたばかりだ。
(退屈だ……も、死にそう)
何かしていないと、余計なことを考える。外に出掛けて人目を意識していないと、先のことばかり考えてしまう。タウン情報誌を見れば、もうホワイトデーの話題ばかりになっている。多分その頃の自分はきっと――。
「辰巳ー、焼けたー。試食ぷりーず!」
「うぉ」
ソファがいきなりズブンと沈む。バランスを崩してよろけた先には、焼きたての湯気立ち上るアップルパイ。
「ジャンピングお座りをしなさんなっつうの、あぶないなぁ」
辰巳は間一髪で背もたれに掴まってパイの顔面直撃を逃れつつ、犬っころのようにキラキラお目々で辰巳を見上げる克美に苦笑混じりの説教を垂れた。
フォークでパイ生地をくしゃりと割る。既製品に勝るとも劣らないよい音が小さなリビングに心地よく響いた。
「さくっとしてるみたいだね。難しいのに、上出来じゃん」
「えへへー。粒が気になって捏ね過ぎちゃうっていう失敗をしたから。今度はあんま捏ねないようにしたんだ」
一度冷凍したから自信なかったんだけど、と言いながらも誇らしげな顔をする克美。甘い評価をするつもりはないけれど、できればそのままの笑顔を保っていて欲しかった。
「さて。スーパーのお手軽林檎で、どこまで味を温存できてるかな」
ワンクッションをかまして克美の過剰な期待や自信を牽制する。素材の旨みが活かされていて、初めて美味いといえるものだろう。
「……」
「ど、どう?」
「……やば」
「やば?」
正直なところ、アップルパイと呼ぶには、林檎の食感に劣化を否めない。だがそれを充分に補える味がそこにはあった。
「これ、何を使って甘煮を作った?」
「砂糖じゃなくて、蜂蜜を使ったんだ。尾崎さんちの養蜂場から六割で売ってあげるって言ってもらえたから」
「蜂蜜、か」
舌にまとわりつくいやらしい甘みではない、どこか酸味も味わえる大人の味。それでいて余韻も味わえる、喉越しのある適度な粘り。
「ちょっとからめた感じでしょ? これなら年配のお客もツルンと飲み下せるかなー、と思って」
言われて気付く、林檎の細かさ。混じっている粒状のそれはかなり少なめで、ほとんどがペースト状になっている。
「年配のお客、か。クレームがあったの?」
「ううん。クレームではないんだけどね。前に、お孫さんを連れて来たおばあちゃんが、オーダーしたアップルパイを結局お孫さんに全部あげていたんだよね。味は好きなんだけど噛めないから残念だ、なんてボクにわざわざお詫びしてくれて、却って申し訳なかったなぁ、なんて」
甘煮を二種類作るという。プレーンはこの生地に、通常の荒さで仕上げたアップルパイを。ソフトと命名したパイは、カップにパイ生地をラッピングする、いわゆるパイ包みスープを模した形で、中身に生地を壊し入れて食べられるようにして出そうと思う、とのことだった。
合理主義な辰巳には思いつけなかったその発想。小さな種を見つけて拾い上げ、そしてそれを見事に芽吹かせて“笑顔”という名の花を開かせる。相手を思う心という名の水と、親愛という名の栄養剤が、今後も克美自身の手によって『Canon』という楽園を満開の花畑にし続けていける。
「……優しいメニューだね」
万感の思いをこめて、感想を口にした。彼女の根底にある優しさに愛おしさを膨らませながら。あとを憂う必要がない寂しさを感じながら。
「ホント? 味もOK? メニューに入れても問題なさそう?」
「うん、上出来。でも克美の手間が増えるよ。大丈夫?」
「ノープロブレム! どうせ午前中はヒマじゃん」
そう言ってカラカラと豪快に笑う。相変わらず素直な笑い方をする。そんな彼女を愛でながら、辰巳は次の一口を頬張った。
「あれ?」
不意に気付く。パイを一つしか焼いていない。
「克美は? 自分は試食しないの?」
なぜか突然、ムッっとした顔をされてしまった。
「……する」
「ふん。ほんじゃ……はい」
フォークで一かけらを切って刺し、克美の口許へ運んでやる。なぜかますます眉尻を吊り上げられた。
「ちっがーう!」
「は?」
「だーかーらーっ!」
今度は金魚に化けたらしい。真っ赤な顔をして口をパクパクさせ始めた。だから何が言いたいんだ、という心の声は、とりあえず呑み込んでおくほうがよさそうだ。
「も、いいっ」
克美はそう吐き出したかと思うと、親の仇みたいな勢いでそのパイに噛み付いた。
「何怒ってんの?」
「いいのっ。鈍ちんとはクチ利きたくない!」
「は?」
気付けば辰巳への試食用と言って出されたアップルパイが、ほとんど克美の腹に入っていた。
最後の一口を口許に運び、克美がポツリと俯いたまま一言零した。
「……味見……フツーに食うだけなんだ」
「……」
克美の言いたいことが、やっと解った。途端、辰巳の心臓が少年のようにいきなり跳ね上がり、せわしなく働き始める。
「……フツーに食えって、前に言ったじゃん」
辰巳の中の警報機が、深入りするなと強いメッセージをまくし立てる。わざとくすりと苦笑を零し、子供をあやす大人を演じるとばかりに、大袈裟なほどぐしゃぐしゃと克美の頭を掻き混ぜた。
「はい、ゴチソーさん。最初に食わせてくれて、ありがとさん」
辰巳はぎこちなくなった空気をリセットしようと、空になった皿を手に立ち上がった。
「あ。そうだ、ごめん」
想定外のリアクションが克美から零れ、キッチンへ向かい掛けた辰巳の足が一旦止まった。
「ごめん?」
「自信なくってさ。この間、先に北木さんに試食してもらったんだ」
「……」
「きっと辰巳さんもこれなら絶賛するよ、って言ってくれて、だからやっとできたー、みたいな」
「……」
「だから、えっと、最初じゃなくって、ごめん」
辰巳の手から皿が落ち、床がからんと鈍い音を立てた。
「……許して、あげない」
辰巳はそう言う間にも、克美の座るソファへ乱暴な足取りで戻るなり、彼女の肩を思い切りソファに押し付けた。
「え? ちょ、あ? たつ……んん!?」
やかましい口を封じ込める。苛立ちをそのまま彼女に押し付ける。突き上げて来る乱暴な衝動が、辰巳の右手を彼女の慎ましい胸へといざなった。
「た、ちょ、ま、って、なに」
涙声で震えるアルト。口付けた喉が、同じように震えている。強張る克美の体の固さが、初めて彼女を掴まえたときに感じた恐怖からのそれを思い出させた。
「……仕返し、終了」
呟くと同時に彼女を解放した。押し付けた身体を引き剥がし、落ちた皿を拾い上げる。咳き込みながら身を起こした彼女が、戸惑う瞳を向けて尋ねて来た。
「仕返し、って、なんだよ?」
「俺に妬きもち妬かせようなんて、百万年早いってことー」
わざとおどけて言ってみせる。なんでもないことのように笑ってみせた。
「妬き……っ、ち、違うもんっ」
「そーんな回りくどい駆け引きみたいなこと、克美には似合わないよ」
手に入れようと思えばいつでも手に入る。そうしないのは、克美がまだお子さまだから、と彼女に杭を刺した。
「だからっ。駆け引きとか、そんなんじゃないってば!」
「はいはーい。残念でしたー、妬きもちなんか、妬かないもんねー」
「人の話聞けーッッッ!!」
辰巳はその後はすべてスルーで皿を洗った。克美の弁解も、皿についたアップルパイのかすも、辰巳の中に湧いた何かも、すべて水道の水で一つ残らず洗い流した。