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直感

「さあ、次は見つめ合った状態でリラックスしてみてください」

 

 会社から命じられたのは「メンタルヘルス研修」だった。形ばかりの労災対策とはいえ、昇進したばかりの他支店の課長が心療内科通いで長期休暇をとったらしい。入社五年目の結花にお鉢が回ってくるのは、疲れて見えたのか暇そうに見えたのか。査定を気にしつつ地下鉄に揺られ、定刻に間に合うよう機械的に体を運んだが、立地からして陰気なビルの一室は、結花の気分を一層萎えさせた。ストレス解消法を説く講師は声が大きいだけで場末の興行主のようだし、集まった参加者も一様に精彩を欠いてみえる。

 プロジェクタを使った講義が終ると、自己紹介をかねた発表をさせられた。第二部はリラックス法の実践だという。机が片付けられ、発声練習や肩まわしのトレーニングのあと、メンバーチェンジで列を移動した。

 新たに対面した相手は、柔和な印象の四十半ばの男だ。細かいチェック地のスーツはくたびれた風合いではあるが、結花が目線を上げるほどの上背はある。


「もう一歩近づいて。そう。目をそらさないでいられますか。リラックスして」


 講師のかけ声を合図に、男の眉根に寄せられていた力がほどけた。結花は昔から目をあわせることに苦痛はない。余裕で相手を見返した。

 

「お互いをありのままに受け入れあうのが自然の姿です。意地悪く観察してはいけませんよ。さあ肩の力を抜いて」

 

 観察しないでいるのはさすがに難しい。無表情に? いやフレンドリーに? 戸惑いながらもいまは不自然なトレーニングに身を委ねるほかない。目の前の男は講師の指示通り、肩まで力を抜いたようだった。真面目な性質たちなのだろう。しかし同年代でもダンディで世事に長けた結花の部長とは違い、この男に華やかさはなかった。

 

「右手を相手の肩に置いてください。信頼が通うのを実感して」

 

 無意識にも彼女の瞳は慈愛の色を帯びていたかもしれない。肩に温かい体温を感じて、真面目な男は目じりを更に下げる。直感的に、結花の頭に閃くものがあった。わたし、この人の奥さんに似ているに違いないわ。

 後半のプログラムがおざなりになるほどに、その閃きを確かめたい衝動は収まらなかった。解散時刻を迎え、親しくなった一部の人間が飲みに行こうと言葉を交わす間を縫って、結花は目で男を捜した。

 幸いエレベーター横の自販機で茶を買う男を認めた。会釈をしながら結花も急いで缶コーヒーを買う。

 

「この研修、喉渇きましたよね。このまま帰られるんですか?」

 

 さりげなく話しかけた結花を見て、男はにこにこしている。開放的なトレーニングの成果で警戒心が見られない。いよいよ本題だ。

 

「あのう、もしかしてわたしって、奥様にちょっと似ていたりします?」

 

「ああ、わかります? そうなんですよ不思議ですねえ」

 

 相手はいかにも嬉しそうに顔をほころばせた。それを見た結花は、予想もしなかった感情が湧き起こるのを感じて、心底びっくりした。

 その感情の正体は、不快だったのだ。直感はあたった、思った通りだった、でも身にまとわりつく親しみが、もうびっくりするほど不快だったのだ。ビル前で男に別れを告げて、結花は並木道を早足で歩く。

 きっとやさしい奥さんだろう。綺麗かもしれない。あの人はいい人だ。でも不快だ、絶対に嫌だ。

 その連想は、きっとしてはいけない連想だよ。荒ぶる胸のうちでそう断じながら、結花はパンプスの踵をわざとコツコツ鳴らしながら歩いた。


 ――誰かに似ているという連想はいけないことだろうか。 

 地下鉄沿線の地上に延びるアーケード街を過ぎ、ファッションビルと飲食店が並ぶ中心地まで来た結花は、いつしか不快の衣を脱ぎ捨てていた。結花にも好きな男がいた。手に負えないと諦めて自分から手放した恋だから、合わせる顔などない。それでも、まとわりつくなら彼、いや、彼のようでなくてはならない。

 

「あれ、もしかして翡翠さん?」

 

 誰かが結花をネットのハンドル名で呼んでいる。反射的に先日オフ会に参加した顔ぶれを探すが見あたらない。すると前を塞ぐようにしてひょろ高い人物が立った。

 

「わは、初めまして! しのぶです」

 

「ええっしのちゃん? しのちゃんなの?」

 

「千夏さんにオフ会の画像もらってたんですよ。はあ良かった、人違いじゃなくて」

 

 四つ年下のしのぶは、ネットでも人気者だった。明るく乗せ上手で返事をまめにつけていた。時折近寄りがたいほどの孤独な呟きをアップすることもある。若いのに発言に深みがあり、決して愚痴を書かない潔さが、結花は好きだった。 

 現実のしのぶはイメージに違わぬ容姿だ。いや、改めて眺めると想像以上に整っていた。彫りの深い顔立ちにモデルのように長い手足。中性的なパンツスタイルがよく似合っている。


「やだあ、しのちゃん、かっこいいよ。女子高でもてたっていう噂、嘘じゃなかったね」


 後方からスピードを出した車が通り過ぎ、とっさにしのぶが結花を内側にかばった。以前バーチャルで楽しんだ「騎士」役そのままのしのぶの行動に結花は喜んだ。「当然です同一人物ですから」と照れながらしのぶが答えると、オンラインの親密さが一気に現実に降りてきた。

 人気のビアガーデンに行き着く前には互いに本名を明かした。なんとしのぶは本名をハンドルにしていた。会えた偶然を祝って上気した顔で乾杯する。とくに結花は頬骨が高い位置に上がりっぱなしで、飲み始めるとさらに饒舌になった。さっきの研修のこと、ネット仲間のこと、いつか書き込んだ恋のこと――。

 ふいにしのぶが顔を寄せて「結花さん?」と語尾をあげて呼びかけた。首元からよい香りがする。落ち着いたしのぶの地声は、耳に心地よくセクシーだった。


「その話は前にも聞いたし、いまも自分は一生懸命ちゃんと聞きました。だから、悲しい話は今日でおしまいにしましょう。ね、結花さん」

 

 一瞬、愚痴を叱責されたと受け取って、結花はしのぶの目を覗き込んだ。しのぶは笑っていなかった。長い睫毛が縁取った瞳の色に、底知れない虚無を感じた。そうか、そうなのか。年下だからと何を言っても経験不足かハッタリだと思っていたが、それは誤りかもしれない。

 背筋に走る驚きの次に感じ取ったのは、悲しみを補おうとして培われた優しさだった。知っている。わたしはこの優しさを知っている。

 

「駄目だなあ、結花さんは。泣くのは時間がもったいないですよ? ほら」

 

 わかったよ、しのちゃんが言ってくれるんだからもう悲しまないよ。慌てて結花の頬にハンカチを当てるしのぶに、あふれる思いのまま微笑み返す。結花の年上の面目はまるつぶれだったが、親友を見つけたような感動に、いまは浸っていたかった。

 

 

 

 

 

 



 


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