夢うつし
三歳になる娘のほのかが悪夢にうなされて夜中にしばしば起きるようになったのは、ここ一ヶ月のことだった。どうやら毎回同じ夢をみるようだ。夜泣きの原因は昼間の運動量が足りないためだろうかと、外遊びを多めにさせ、先週の日曜日には妻と三人で海水浴にも出かけた。疲れきったほのかは爆睡したので確かに効果があったのだが、お盆休みの初日に妻の実家で夜更けに泣かれては、案の定、おおごとになってしまう。
「血縁者なら効く薬だ。俺が飲んでもいいが、哲夫さん、やってみるかね」
義父は醸造会社の研究所で勤めるかたわら独学で薬事法を学び、退職後は自宅を改築して義母とともに小さな薬店を営んでいる。人付き合いがまるで駄目な義父なのに客商売に転じたのは、ひとえに義母の人柄をあてにしてのことだろう。しかし第二の人生にむけて一念発起し、ご近所づきあいの延長と立地のよさで、そこそこ固定客もついているからたいしたものである。
おかげで帰省中のちょっとした発熱や腹下しなどは、義父がうってつけの薬を出してくれるので助かっていた。しかし、この薬は何だろう。ほのかに飲ませるのならわかるが、私に飲めと言わなかったか。
黒いキャップのついた茶色の小瓶には漢字ばかりのラベルが貼ってあった。「これ、売薬ですか?」と尋ねながら思わず手にとる。
「漢方のエキス剤だよ。この頃は意外と漢方が効く。先月も何歳だったかな、女の子が夜泣きだといって親御さんが来てね。一晩でよく効いたそうだよ。哲夫さんがいやなら雪枝でもいいんだ、雪枝、雪枝」
「いやだ、お父さんったら。大丈夫なの? 怖い夢は伝染したら治る、なんて。迷信としか思えないわ」
妻は肉親だから言いたいことが言えるが、こちらはそうもいかない。においを嗅いだら、コアントローに正露丸とゆで卵を溶かしこんだような複雑な香りがして、ふと酔い心地になった。「面白いじゃないですか、今夜早速試してみましょう」口をついて答えてしまってから軽口めいていなかったかと思う。なのに「でもおとうさん、目が覚めたらバクにはならないでしょうね?」と、さらに軽さを上乗せする形でためらってみせたが、「それならわたしが許さないわ」という妻のひとことで一蹴されてしまった。私も夏休み気分には違いない。
催眠剤の一種なのだろう、服薬してまもなく涙がでるようなあくびが数回、そのうちぐらんと目がまわるような感覚を覚え、頭の後方に意識がもっていかれた。どれくらい無を感じていただろうか。気付いたら私は、三歳のほのかがみていた、夢のなかにいた。
私は自分のマンションにいた。ほのかはいない。夢の肩代わりをしているのだから、私が、幼いほのかの役をしているのだった。
お昼寝から起きたらママがいない。寝すぎたのかもう室内が薄暗く、独り聞き耳をたてる。窓の向こうの中庭あたりからママたちの笑い声がした。ああ、コープさんが来るのかな。楽しそうだな、ママのところに行きたい、と思うのに体がびくともしない。悪寒が走った。怖い。怖いものがいる。
あかりのついていない部屋の壁を夕焼けが紅く染めはじめている。台所のほうが暗い。さらに奥にあるお風呂場がなんだか黒い。あそこだ。あそこにお化けがいる。へのへのもへじのお化けが。
ほのかの恐怖を、いま私は体感している。何度も繰り返し見た夢だからだろうか、視界の届かない台所の隅やまだ登場していないお化けの顔が思い描ける。それはあまりに不気味だった。
へのへのもへじの顔面は、単純な線だからこそなおさら、目の動き、口の動きに微妙な変化が浮かび上がるかのようだ。黒々と禍々しい気配が、金縛りにあった幼い私をじらすかのように、じわりじわりと身に迫ってくる。なすすべもなく窓の外の夕空が刻々と紫色に変化するのを眺めていると、ついにへのへのもへじのお化けが私の眼前に姿を現す。万事休すか。
次の瞬間、私は全速力で走っていた。ああ、逃げている。相手はもうへのへのもへじではない。なぜなんだろう。脈絡がないのが、夢だ。と頭ではわかっているが、逃げる恐怖を体感しつつ、幼いほのかの内側をそのまま表しているような様相に、ただただ目をみはっていた。
世界は、パステルカラーだった。ピンクや淡い紫色や水色のマーガレット型の平面的な花が、貼り付けられたように一面に広がっている。同時に夢は、花畑の真ん中を懸命に走っている一人の少女を、パノラマで映し出しもする。姿を隠した追っ手の気配はむやみに恐怖をあおり、少しでも速度を緩めれば背中をかすめそうだ。逃げなきゃ。早く逃げなきゃ。
行く手にトンネルの入り口が見えたので一心に走りこんでいくと、その内側は合掌造りのような日本家屋となっていた。日本昔話の世界だ。突然、自分は猿。さるかに合戦の猿になったんだ、との自覚が閃き、日本間から土間へ抜けて軒下へ出たとたん、ドスン、と背中に衝撃が走る。
重たいものに地面にうつぶせに倒されて、私は押しつぶされていた。おとぎ話では石臼のはずだが、生命反応もない無機質な衝撃と鈍痛であるのが無性に悲しい。痛い。怖いよ。小さなほのかには最大級の嘆きと痛みがじかに伝わってくる。ほのかはこらしめられたんだ、きっとすごく悪いことをしたんだ、だからこんな目にあうんだ。わあわあと大声をあげて泣きじゃくりたいのに、泣けるだけの落ち着く隙を夢は与えてはくれない。いつのまにか重石がとれていて、気付けばお花畑のパステルカラーの真ん中に戻っていたのだった。それからは今みた光景が延々と展開される。お花畑、さるかに、ドスン、お花畑、さるかに、ドスン。永遠に繰り返す恐怖と痛みとパステルカラー。
ほのかが大泣きして起きる理由がわかった。見える世界は子供らしいあどけなさに満ちているけれども、永遠にさいなまれる罪と罰。言うなれば地獄。それは、こんなに小さなほのかでも、あるいは誰でも、本能的に持っている恐れなのかもしれない。
「ほのかー。パパ起こしてあげて」「はあい」
足元のさらに向こうから愛する二人の声がする。ああ、生きて戻れたみたいだな。
ほのかが近づいてきて、私の頬にぺたんと吸い付くようにすべすべの紅葉の手をあてた。片目だけ開けてみる。「パパぁ、朝ですよう」ほのかの手に触れた自分の手は獣ではなかった。よかった。バクにはなっていなかったようだ。
朝食後、照れくさいので妻には何も言わず、義父にこっそり報告をした。
「ほのかの夢、ちゃんとみれましたよ。ずいぶんと怖い夢をみていたようです。これでほのかは大丈夫なんですよね」
「おお、それは良かった。もう悪夢はみないから安心なさい。で、その夢は、へのへのもへじとさるかに合戦だったかな」
そしてあの薬は実は売り物ではなく、先祖伝来の秘薬だと明かしてくれた。「雪枝はもっと小さかったからなあ。まったくおかしな夢だったよ」と言って、義父は庭に出て花に水やりをしている妻を目で追いながら、懐かしむように目を細めた。