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保険金詐欺のために妻を人柱にしようとしたクズ旦那!黒化した私が怨霊と融合し、クズ共を精神科病棟へ追い詰めて完全破滅!

作者: 熾星
掲載日:2026/07/11

 

 私は、夫の不倫現場を押さえようとしていた妻だった。


 その夜、池袋北口にある古びたビジネスホテルの一室で、私は夫の久我涼介と、大学時代からの友人だった白石莉奈がベッドの上で毛布にくるまっているのを見た。莉奈がルームサービスと勘違いしてドアを開けた瞬間、私はその隙間から部屋へ踏み込んだ。室内には香水と酒の匂いが混ざって残り、テレビは消えているのに、ベッドサイドの照明だけが妙に眩しかった。


 用意していた言葉は、喉の奥で全部つかえた。


 私が口を開くより先に、浴室の鏡から白い手が伸びてきた。赤いワンピースを着た女が、鏡の中から這い出してくる。長い髪は床まで垂れ、顔の半分以上を覆い隠し、伸びた爪がタイルを引っかいて耳障りな音を立てていた。


 その冷たい手が私の肩に触れた瞬間、目の前に歪んだ文字が浮かび上がった。


【不憫すぎる妻、終了のお知らせ! このあと女幽霊に憑依されて飛び降り、死後はクズ夫が五千万円の保険金を受け取り、不倫相手と結婚式!】


【涼介が契約したのは高額の傷害保険。受取人は最初が母親、そのあとこっそり莉奈も追加済み!】


【泣いてる場合じゃない、逃げて!】


 ベッドの上で顔を歪め、今にも私を殴ろうとしている男を見た瞬間、なぜか悲鳴は出なかった。怖くないわけではない。けれど恐怖より先に、身体の芯が冷えるような怒りがこみ上げてきた。


 私は女幽霊の冷たい手首をつかみ、誰もいない空間へ向かって笑った。


「ねえ、赤いお姉さん。取引しない?」


「先に私へ憑いて、あの最低な二人を片づけさせて。終わったら、私の命であなたのノルマを達成していいから」



 1



 空気が数秒、凍りついた。


 私の肩にかかっていた幽霊の手が、わずかに動く。髪で顔を隠した女が近づき、白く濁った目で私をじっと見た。


 やがて、彼女はうなずいた。


 冷気が背骨に入り込み、血管を伝って手足へ流れていく。寒いとは思わなかった。むしろ、見知らぬ力に身体を支えられているようだった。荒っぽく、冷たく、それでも今の私にはどんな慰めより頼もしい力だった。


「凛! 何してるんだ、お前!」


 涼介は毛布を莉奈にかけ、上半身裸のままベッドから飛び降りた。顔色は悪いのに、そこに後ろめたさは少しもない。あるのは、現場を押さえられたことへの苛立ちだけだった。


 彼が私の前まで来たとき、もう手は振り上げられていた。


「あれは浴室の加湿器の煙だろ! 何を幽霊だの何だの、ふざけてるんだ!」


 平手が風を切って迫る。


 いつもの私なら目を閉じていた。震えて、それでもこの結婚をどう終わらせれば体面が保てるか、そんなことを考えていたはずだった。


 けれど今回は、右手が勝手に持ち上がった。


「ぱんっ!」


 乾いた音が響き、涼介はその場で半回転してテレビ台に叩きつけられた。胸を押さえて咳き込み、口元から血が滲む。ようやくその目に恐怖が浮かんだ。


 私は自分の手を見下ろした。掌は赤くなり、指の関節が痺れている。


 これは私の力じゃない。


【今のビンタ、クリティカルヒット!】


【赤いお姉さん、最高! クズ夫の顔、歪んだ!】


【注意! クズ夫、祖母の形見の勾玉守りを出します!】


 涼介はよろめきながら起き上がり、ベッド脇のズボンに手を伸ばした。ポケットから取り出したのは、翡翠色の勾玉だった。赤い紐が通されたそれを見た瞬間、浴室に満ちていた冷たい気配が一歩引いた。


 涼介は勾玉を首にかけると、少しだけ強気な顔に戻った。


「やっぱりな。お前、変なものに取り憑かれてる」


「これは祖母が神社で授かった守りだ。お前なんかに俺は傷つけられない」


 肩の重みが、ふっと消えた。


 赤い影が天井の隅まで弾き飛ばされる。髪を乱し、喉の奥から鋭い声を上げているのに、もう涼介には近づけない。


 莉奈は毛布にくるまり、ベッドの隅で青ざめていた。


「涼介さん……凛、何かに取り憑かれてるの? 怖い……」


 涼介は私の前まで来ると、胸ぐらをつかんで足が浮くほど持ち上げた。莉奈を見るときの目にはいたわりがあり、私を見る目には嫌悪しかない。襟が喉に食い込み、呼吸が少しずつ細くなっていった。


「ここまで来たなら、はっきりさせよう」


「俺と莉奈は本気だ。見ただろ。帰ったら離婚届に署名しろ」


 目の前のコメントが、突然、刺すような赤に変わった。文字が押し合いながら流れ、暗闇から伸びる手のように、真実を私の目の前へ突きつけてくる。


【信じないで! この男、離婚して財産を分ける気なんかない!】


【身体に問題があって薬頼み。しかも性格までねじれてる!】


【五千万円の傷害保険を妻にかけてる。最初の受取人は母親、そのあと不倫相手を追加!】


【莉奈のお腹の子は、あの偽霊能者の子。二人で保険金詐欺を企んで、妻を事故死に見せかけるつもり!】


 事業資金が足りない。会社が軌道に乗るまでは子どもを作れない。すべては二人の将来のため。


 全部、嘘だった。


 この男は、結婚を終わらせたいわけではない。一時の浮気で理性を失ったわけでもない。


 私の命が欲しかったのだ。


 私は暴れるのをやめ、天井の赤い女幽霊を見上げた。長い髪が壁際に垂れ、白く濁った目には、勾玉に弾かれた怒りがまだ燃えている。


 その瞬間、目の前の生きている二人より、この女幽霊のほうがよほど話が通じそうに見えた。


「あいつが社会的に終わるところ、見たくない?」


 女幽霊の叫びが止まった。彼女は首をかしげて私を見る。


「誰に向かって話してる?」


 私は膝を振り上げ、涼介の下腹部へ叩き込んだ。


 彼は悲鳴を上げ、私から手を離して床に崩れた。顔が赤紫に染まっていく。私は床に着地して息を吸い込み、そのまま浴室へ駆け込んだ。


「どうせ騒ぐなら、徹底的に騒ぎましょう」


 洗面台にあったクレンジングオイルの蓋を開け、中身を涼介とベッド上の莉奈へ浴びせる。二人は慌てて避けたが、毛布にもシーツにも肌にも、油がべったりと広がった。


 私はスマホを取り出し、無様な二人の姿を連写した。


「あとは弁護士を通して」


 そう言って、私は部屋を飛び出した。赤い女幽霊がドアをすり抜け、私のあとを追ってくる。


 ホテルの廊下の照明が一つ、また一つと瞬いた。まるで、この茶番に拍手しているみたいだった。



 2



 私は家には戻らず、近くの別のビジネスホテルに部屋を取った。


 ドアを閉めた途端、室温が一気に下がる。赤い女幽霊は空中に浮かび、さっきよりも爪を伸ばし、全身から黒い霧のような怨念を漂わせていた。勾玉に弾かれた怒りが、まだ収まっていないらしい。


【赤いお姉さん、落ち着いて。妻はもう作戦を考えてます!】


【あの勾玉、少し厄介。穢れで霊力を壊す必要あり!】


【粗塩と朱墨だけじゃ弱い。血の匂いがあったほうがいい!】


 私はベッドの端に座り、彼女を見上げた。


 スマホはベッドの上に投げてある。画面は何度も光り、涼介からLINEのボイスメッセージが十数件届いていた。中身は罵倒と脅しばかりで、かえって頭が冷えていく。


「正面からやっても無理」


 女幽霊は床に降りた。裸足なのに、足音はしない。長い爪で机の天板を引っかくと、木屑が少しずつめくれ、まるで腐食したように黒ずんでいった。


 部屋には、エアコンの低い音と、爪が机を削る音だけが残った。


【あいつを殺す】


「私もそうしたい」


 バッグから黒い墨汁を取り出し、さらに近所のスーパーで買った鶏レバーのパックを開けた。底に溜まっていた赤黒い血水が、生臭い匂いを放つ。見た目は最悪だが、あの勾玉の力を汚すにはちょうどいい。


「でも死ぬ前に、私から奪ったものと証拠は全部吐き出してもらう」


 スマホが鳴った。


 相手は姑の美代子だった。口を開けば金をせびり、閉じれば嫌味を言う女だ。


 私は通話をつなぎ、スピーカーにした。


「凛! どこにいるのよ、今すぐ戻ってきなさい!」


「涼介が病院に行く羽目になったのよ。戻ってきて土下座しないなら、ただじゃ済まないからね!」


 私は隣の女幽霊を見た。彼女の目の奥で、黒い気配が濃くなる。「謝れ」という言葉が、何か古い傷に触れたのかもしれない。


 彼女は急かさず、ただ私の返事を待っていた。


「わかりました。今から戻ります」


 通話を切ったあと、鶏レバーの血水を墨汁に注ぎ、さらに朱墨を少し混ぜた。瓶を振ると、中身は黒赤い液体に変わる。私はそれを小さなスプレーボトルに移し、袖口へ隠した。


【簡易版・破邪スプレー?】


【効果は弱いけど、勾玉に当たれば一時的には無効化できるはず!】


【妻、虎穴に戻ります!】


 私は袖を整え、ボトルが落ちないことを確認した。


 女幽霊が顔を上げる。長い髪の下で、口元がゆっくりと裂けるように笑った。恐ろしい笑顔なのに、なぜか少し心が落ち着いた。


「私の合図を見て」



 3



 三十分後、私は板橋区にある古い一LDKのマンションへ戻った。


 ここは私と涼介が結婚してから住んでいた部屋だ。最寄り駅から徒歩十五分。下にはコンビニとコインランドリーがある。結婚前、涼介はここを「一時的な住まい」だと言った。ITコンサル会社が軌道に乗ったら、港区へ引っ越そう、と。


 あとになってわかった。


 その「一時的な住まい」は、私の貯金をほとんど飲み込んだだけだった。


 玄関のドアは半開きだった。リビングの照明は白々しく明るく、中には人が揃っている。その瞬間、私は裁判席へ戻ってきたような錯覚を覚えた。


 ただし、彼らはまだ、裁かれるのが自分たちだとは思っていない。


 涼介は青い顔でソファに横たわり、首にはあの勾玉をかけていた。手には水の入ったコップを持ち、まるで自分が大きな被害を受けた病人であるかのように振る舞っている。


 莉奈は部屋着に着替え、隣でリンゴを剥いていた。その手つきは妙に慣れていて、まるでこの部屋の主婦のようだった。


 美代子はローテーブルの前に陣取り、掃除用の長いはたきを握っていた。


 私が入るなり、湯呑みが足元へ叩きつけられる。割れた陶器の欠片が靴先に飛んだ。彼女は顎を上げ、隠そうともしない嫌悪を顔に浮かべている。


「土下座しなさい!」


 涼介は冷笑し、テーブルの上の書類を指さした。数枚の紙が、わざと目立つように置かれている。まるで、私が署名するのを待っていたかのように。


 莉奈は目を伏せていたが、口元の得意げな笑みは隠しきれていなかった。


「これは莉奈の診断書と慰謝料請求書だ。傷害で被害届を出されたくなければ、ここにサインして、莉奈に土下座しろ」


 私は書類に目を落とした。


 慰謝料五十万円。書式は雑で、文章もお粗末なのに、要求だけは堂々としている。欲深さというものは、ときどき恥じることすら忘れるらしい。


 私は何も言わず、ゆっくりテーブルへ近づいた。


 女幽霊は天井に張りついている。長い髪が垂れ、涼介の頭上へ落ちていた。彼には見えていないはずなのに、無意識に肩をすくめる。勾玉は薄い光を放ち、髪を三寸ほど手前で押し返していた。


【土下座しちゃだめ!】


【落ち着いて。妻は角度を見てる!】


【勾玉が壊れたら、この部屋の誰も逃げられない!】


 美代子がはたきの柄で私の肩を突いた。大した痛みではない。けれど、そこには何年も積み重ねられた侮辱があった。


 この家で私は、一度も尊重されたことがなかったのだと、改めて思い知らされる。


「黙ってないで返事をしなさい。普段はあんなに口答えばかりするくせに。今日、床に額をつけて謝らないなら、この部屋から出られると思わないことね」


 私は涼介の胸元の勾玉を見つめ、ゆっくり膝を折った。


 涼介と莉奈が視線を交わし、似たような得意顔を浮かべる。膝が床へ触れる寸前、私は足を滑らせたふりをして前へ倒れ込んだ。


「わかりました。土下座します」


「あっ!」


 袖口のスプレーボトルは、すでに開けてある。


 黒赤い液体が、正確に勾玉へ吹きつけられた。


 焦げたような匂いが弾ける。勾玉の光は一瞬で消え、表面に細かなひびが走った。隙間から黒い煙が一筋、立ちのぼる。


「俺の勾玉……」


 涼介が胸元を見下ろした。


 次の瞬間、リビングの電球が一斉に破裂した。闇が、濡れた布のように部屋へかぶさる。


 続いて、凄まじい女の叫び声が室内に炸裂した。


 窓の外の月明かりだけが、リビングの輪郭をぼんやり浮かび上がらせている。美代子が慌てて手探りし、ライターを点けた。小さな炎が涼介の青ざめた顔を照らす。


 だが、その火はすぐに消えた。


 隙間風が入り込み、カーテンが激しくはためく。


「何なの? 停電?」


「涼介さん! 何かが足を触ってる!」


 莉奈が悲鳴を上げ、涼介にしがみついた。


 私は床から立ち上がり、膝についた埃を払った。ポケットには、帰り道に花壇の縁で拾ったコンクリート片が入っている。暗闇の中で、指が少しずつそれを握りしめた。


【赤いお姉さん、出勤です!】


【まず足、次に頭。段取りがいい!】


【姑、そろそろ限界!】


 美代子がはたきを振り回した。


 天井に、赤い影がゆっくり現れる。四肢を天井へ張りつけ、首だけを百八十度回転させ、白く濁った目で下の三人を見下ろしていた。


 正常な人間なら、その場で崩れ落ちてもおかしくない光景だった。


「誰なの! 誰がこんな真似をしてるの!」


「きゃあああっ!」


 莉奈が真っ先に気づき、転がるように玄関へ向かった。だがドアは何かに溶接されたように動かない。何度ノブを回しても、開く気配はなかった。


 女幽霊は天井から落ち、涼介の首にまたがった。


 普通の人間の目には、涼介が突然白目を剥き、自分の両手で喉を締め上げているようにしか見えない。顔はみるみる青紫に変わり、喉から千切れたような声が漏れた。


 美代子はその場に尻もちをついた。尿の匂いがリビングに広がる。


「たす……け……母さん……」


「涼介! 凛、あんたが何かしたんでしょう!」


 私は冷ややかに彼らを見ていた。


 コメントは暗闇の中で青白く光っている。月明かりよりもはっきりと。その文字は、私に心を緩めるなと告げていた。


【今すぐ死なせちゃだめ。そんなの安すぎる!】


【自称霊能者、こちらへ向かっています!】


【涼介はそいつに儀式を頼んで、妻を人柱にするつもり!】


 人柱。


 その言葉が浮かんだ瞬間、私はポケットのコンクリート片を強く握った。


 彼らは保険金を騙し取るだけではなかった。私の死に方まで、もう決めていた。


「離して」


 女幽霊は不満そうに手を緩めた。


 涼介は床に崩れ、大きく息を吸い込む。首には青紫の痕が浮かんでいた。女幽霊は私のそばへ戻り、長い爪を頬に滑らせる。かすかな痛みが走った。


「焦らないで。大物がまだ来てない」


 涼介は息を整えると、震える指で私を指した。


 莉奈は玄関のそばでスマホを握りしめている。救いの綱にすがるような顔だった。恐怖は本物だ。けれど目の奥の計算もまた、本物だった。


「お前……化け物か……」


「御堂先生がすぐ来るから……涼介さん、もう少しだけ耐えて……」


 最初から助けを呼んでいたらしい。


 私はテーブルへ行き、涼介が飲んでいたコップを手に取った。もう片方の手でコンクリート片を握る。


 役者が揃うなら、観客席が埋まるまで待ってやればいい。


「じゃあ、待ちましょう」


 十分後、廊下から慌ただしい足音が聞こえた。


 ドアが外から勢いよく開き、濃い色の作務衣を着た中年男が飛び込んでくる。首には数珠、手には御幣と木刀。腰にはしわだらけの護符を何枚も貼りつけていた。


「諸邪退散!」


 御堂玄信は部屋に入るなり、粗塩をつかんで撒き散らした。


 莉奈が頼った霊能者。そして、莉奈の腹の子の本当の父親。


 粗塩が女幽霊に当たると、白い煙が上がった。彼女は悲鳴を上げて後退し、赤い姿が目に見えて薄くなる。


「悪霊め、姿を現せ!」


【この詐欺師、塩と護符だけは本物!】


【女幽霊は成り立てで、怨念は強いけど足場が弱い。正面からだと危険!】


【妻、物理除霊の出番!】


 粗塩が効いたことで、御堂の顔に得意げな笑みが浮かぶ。御幣を振りながら、涼介へ目配せした。


 涼介は床から立ち上がり、目に再び凶暴な光を宿した。


「久我さん、悪霊は私が押さえています。あの女を縛ってください。血で陣を閉じれば終わります」


「凛、悪く思うなよ」


 迫ってくる二人の男を見て、私は粗塩で焼かれてうずくまる女幽霊へ視線を向けた。


 呪術が駄目なら、物理でいくしかない。


 次の瞬間、私は手の中のコンクリート片を御堂の額へ向かって投げつけた。


「退散するのはそっちでしょ!」


 コンクリート片はリビングを飛び、御堂の額に直撃した。


 完全に油断していた彼は白目を剥き、そのまま後ろへ倒れる。木刀が床へ落ち、乾いた音を立てた。


 リビングには、涼介の震える呼吸だけが残った。


「お前……人を殴ったのか……?」


 私はすぐに近づき、木刀を蹴り飛ばした。砕けたコンクリート片の残りを拾い上げる。涼介は後ずさりし、脚から力が抜けてソファへ崩れた。


 さっきまでの凶暴さは綺麗に消え、恐怖でふやけた顔だけが残っている。


「刃物みたいなものを持って、勝手に部屋へ入ってきた男を止めただけ。正当防衛って言うのよ」


「凛……待ってくれ。話せばわかる」


 女幽霊は再び形を取り戻し、御堂の上へ浮かぶと、その顔を何度も踏みつけた。御堂は気絶しているから声を上げない。ただ、自称霊能者の顔がどんどん歪んでいく。


 コメントは、さっきよりも勢いよく流れた。


【物理除霊、永遠に強い!】


【この霊能者、硬核な妻に当たって運が尽きた!】


【見て! 懐から何か落ちた!】


 御堂の作務衣の前が開き、黒い手帳と数枚の護符が床へ落ちた。


 私は屈んで手帳を拾う。中には、生年月日、依頼内容、振込金額がびっしり書かれていた。折り目のついたページを開いたとき、そこに私の名前と生年月日があった。


 横には、こう記されている。


 “陰気が強く、人柱に適する。久我涼介、三百万円で依頼。”


 三百万円。


 私の命は、彼の中で三百万円だったらしい。


 手帳をバッグへしまい、涼介を見る。


「三百万? ずいぶん値切ったのね」


 涼介の顔は真っ白になり、汗が顎から落ちている。


 そのとき、隅にいた莉奈が突然飛びかかってきた。手には割れた湯呑みの破片を握っている。鋭い欠片が、私の首を狙っていた。


 距離が近すぎて、避けられない。


「違う……あいつに騙されたんだ……」


「死んでよ!」


 頭の中に、冷たい声が響いた。


 身体が一瞬で私のものではなくなる。背骨が後ろへ大きく反り、破片を避けた。右手が伸び、莉奈の手首をつかむ。


【危ない】


「ごきっ」


 骨が軋む音がはっきり聞こえた。


 莉奈が悲鳴を上げ、破片が床へ落ちる。私は片手で彼女を涼介のほうへ投げた。二人はぶつかり、床に転がった。


 血が熱くなる。視界が赤黒く染まっていく。


 女幽霊の声が、意識のすぐそばを滑った。


 リビングの果物ナイフ、はさみ、木刀が一斉に震え、ゆっくり宙へ浮かぶ。刃先は、床で抱き合うように縮こまっている涼介と莉奈へ向いた。


【この身体、少し借りる】


「好きに使って」


【高能注意!】


【妻と女幽霊が融合!】


【直接殺すのはだめ。クズ同士で噛み合わせよう!】


 私の口元が、勝手に吊り上がった。


 出てきた声は、二人分の声が重なっていた。涼介と莉奈は抱き合い、私を見る目に、本物の怪物を見るような怯えを浮かべていた。


「ねえ、涼介。ゲームをしましょう」



 4



 果物ナイフが涼介の目の前で止まっている。刃先と眼球の距離は、一センチほどしかない。彼のズボンは濡れており、歯は鳴りっぱなしで、まともな言葉も出てこない。


 莉奈は壁際で小さく丸まり、声を出して泣くことすらできずにいた。


「真実か挑戦、やったことある?」


「や、やる……やります……」


 私は指を鳴らした。


 果物ナイフが勢いよく落ち、涼介の両脚の間、ソファの隙間に突き刺さる。彼は全身を跳ねさせ、喉からひゅっと息を漏らした。


 はさみが空中で、かちかちと刃を合わせる。まるで練習しているみたいだった。


「ルールは簡単。私が質問する。先に答えたほうから、刃物は遠ざかる。嘘をついたら……」


「第一問」


 私は椅子を引き寄せて座り、脚を組んだ。


 リビングはめちゃくちゃだった。それなのに今の私は、取調室にでもいるみたいに落ち着いていた。涼介と莉奈が顔を上げる。二人とも、追い詰められた動物のような顔をしていた。


「莉奈のお腹の子、父親は誰?」


 部屋は死んだように静まり返った。


 涼介が勢いよく莉奈を見る。莉奈は唇を青くし、声を出さない。はさみがゆっくり彼女の腹部へ向きを変えた。刃先が冷たく光る。


「三、二——」


「御堂先生の子! 御堂先生の子よ!」


 莉奈は腹を抱え、壁際へ後ずさりながら叫んだ。一度口にした途端、腹の中に隠していた汚いものを全部吐き出すように、言葉が止まらなくなった。


 涼介はその場で凍りつき、顔から血の気が引いていく。


「涼介は子どもを作れないの! 保険金詐欺に協力するために、御堂先生に頼んだだけ! 涼介も知ってた。お金だって渡してた!」


【予想はしてたけど、本人の口から聞くと破壊力すごい!】


【緑の帽子、かぶり方が本気!】


【涼介、提供精子のつもりだったのに、相手が知り合いとは知らなかった模様!】


 涼介は莉奈を突き飛ばし、顔を歪めた。少しでも尊厳を保とうとしているのかもしれないが、手は震えている。


 莉奈が彼を見上げる。その目には、もう作った弱々しさは残っていなかった。


「何だって?」


「病院で人工授精したって言っただろ! 俺の子だって言ったじゃないか!」


 平手が莉奈の頬に落ちた。


 莉奈は顔を弾かれたが、すぐに涼介へ飛びかかって顔を引っかいた。二人は床の上で揉み合い、髪も服も爪も絡まり合う。頭上に刃物が浮いていることすら忘れているようだった。


「この女! 俺を騙したのか!」


「役立たずはそっちでしょ! お金目当てじゃなきゃ、誰があんたと夫婦ごっこなんかするのよ!」


 私はしばらく眺めてから、手を上げた。


 刃先が再び近づく。二人はすぐに離れ、それぞれ別の方向へ転がった。さっきまで殺し合う勢いだったくせに、今は首根っこをつかまれた動物のように静かになっている。


「第二問」


「涼介。あの保険金の受取人、お義母さん以外に誰を入れたの?」


 涼介の目が泳いだ。


 肉切り包丁が飛び、彼の髪を一束削り落とす。その髪が膝の上へ落ちた瞬間、彼は完全に折れた。


「莉奈だ!」


「一度、受取人を変えた。金が入ったら、莉奈と東京を出るつもりだった」


 私は笑い、目を覚ましたばかりの美代子を見た。


 彼女は気絶したふりをしていたらしいが、そのまぶたが大きく跳ねた。


 息子が妻を殺して保険金を取ろうとしている。それは自分の老後のためだと思い込んでいたのだろう。


 けれど結局、彼女も捨てられる側だった。


 私は椅子を操り、美代子のそばへ滑らせた。彼女を座らせる。濁った目に、どす黒い憎しみが浮かんだ。


 美代子は血だらけの涼介を見て、保身のために何もかも吐いた莉奈を見る。数秒後、懐から小さな帳面を取り出した。


「お義母さん、聞きました? 息子さん、他人の子を妊娠した不倫相手のために、あなたの老後資金まで捨てるつもりだったみたいですよ」


「この恩知らず!」


 美代子は帳面を私の前へ投げた。


 角がすり減った古い帳面だった。ずっと隠していたのだろう。彼女の手は震えていた。恐怖ではない。自分まで騙されていたことに、ようやく気づいた怒りだ。


「涼介の会社の不正経理、架空経費、脱税の記録よ。凛、これを税務署でも警察でも持っていきなさい。私の金が戻らなくても、この二人にだけは渡さない!」


【姑、寝返りが早い!】


【利害関係が壊れた瞬間の反撃、いちばん怖い!】


【証拠の鎖がつながってきました!】


 私は帳面を拾い、数ページめくった。


 怪しい経費が一つ一つ記録されている。御堂への振込記録まで挟まっていた。帳面が私の手に渡ったのを見た涼介は、その場で崩れ落ちた。


 終わりだ。



 5



 私は宙に浮かぶ刃物を下ろした。


 ナイフやはさみが床へ落ちる。身体から力が抜け、危うく倒れそうになった私は椅子の背に手をついた。女幽霊が私の身体から抜け出し、涼介の頭上に浮かぶ。


 今度は、彼にもはっきり見えていた。


 赤い女幽霊は見知らぬ悪霊ではなかった。かつて、この部屋で死んだ女だ。涼介の瞳孔がきゅっと縮み、唇が震えながら一つの名前を吐き出した。


「篠原……茜……」


 女幽霊が彼を見下ろす。長い髪が、少しずつ彼の顔へ垂れていった。


 涼介は這うようにして壁際へ逃げる。膝が擦りむけても、気づいていない。莉奈は白目を剥いて、その場に倒れた。


「うわあああっ! 幽霊だ!」


 御堂が目を覚ました。


 彼は床を這い、玄関へ向かおうとしている。その動きは遅く、みっともなかった。さっきまで偉そうにしていた霊能者は、今や背骨を折られた虫のようだった。


 私は近づき、その手の甲を踏みつけた。


 御堂は痛みに顔を歪め、私と宙に浮かぶ茜を見上げる。次の瞬間、彼はもう片方の手でスマホを取り出し、震える指でロックを解除した。


「御堂先生、どこへ?」


「助けてください! 私は金をもらって動いただけです! 全部、久我に頼まれたんです!」


「録音があります! 儀式であなたをどうにかしろと頼まれた録音も、振込記録もあります! 全部渡します。命だけは助けてください!」


 私はスマホを受け取り、録音と振込画面のスクリーンショットをすべて自分のクラウドへ送った。さらに、事前に相談していた弁護士にも転送する。


 保険金詐欺未遂、殺人予備、傷害、脅迫、監禁、不正経理。


 証拠が積み重なり、涼介を深い穴へ引きずり込む縄になっていく。


 私は彼の前へ行き、見下ろした。彼はもう正気を失いかけていて、口の中で「来るな」と繰り返している。


 しゃがみ込み、彼の頬を軽く叩いた。


「目を覚まして」


 涼介はびくりと震え、かろうじて焦点を合わせた。


 私はバッグから、あらかじめ弁護士に作ってもらっていた離婚協議書と財産分与の合意書を取り出し、彼の顔へ投げる。紙が胸元へ落ちると、彼は救済命令でも見たようにそれを凝視した。


「署名して。共有財産は弁護士の指示通りに分ける。あなた個人の借金はあなたが背負う。私から動かしたお金も、一円残らず返してもらう」


 涼介は紙面を見つめ、どこか解放されたような表情を浮かべた。


 金を失っても、この部屋から出られるならいい。幽霊にまとわりつかれるよりは、まだまし。


 そう思ったのだろう。


 彼はペンをつかんだ。手が震え、署名は歪んでいた。


「書いた……凛、書いたから。頼む、あれをどこかへやってくれ……」


 署名を終えると、彼は床へ手をついて頭を下げた。


 私は書類をしまい、指先で軽く弾いた。


 そのとき、外からサイレンが近づいてきた。鋭い音は、まるでこの審判へ最後の印を押すようだった。


「最初からそうしていればよかったのに」


 通報したのは美代子だった。


 自分の老後資金を守るためなら、寝返るのも早い。


 警察官が部屋へ踏み込んできたとき、そこにあったのは惨状だった。倒れた莉奈、カーテンの紐で縛られた御堂、正気を失いかけている涼介、そしてソファで静かに水を飲む私。


 茜は警察官が入ってくる直前に姿を消した。


 だが涼介の目には、まだ彼女が首にまたがり、耳元で息を吹きかけているように見えていたらしい。


 彼は警察官へすがりつき、空中を指さして叫んだ。


「お巡りさん! 幽霊がいるんです! 助けてください、本当にいるんです!」


 警察官は眉をひそめ、床の木刀、護符、散らばった刃物を見た。


 現場は、もう多くを説明しなくても十分だった。


 先頭の警察官が手を上げる。


「関係者全員、署で話を聞かせてもらいます」


 涼介は連れていかれながらも、何度も私を振り返った。目には恐怖と、ほんの少しの安堵が混じっている。


 警察署へ行けば安全だとでも思っているのだろう。


 私は彼に向かって軽く手を振り、音にしないまま唇を動かした。


 ゲームはまだ終わっていない。



 6



 事情聴取は明け方まで続いた。


 場所は管轄の警察署だった。保険金詐欺未遂、傷害、脅迫、そして違法な宗教まがいの儀式が絡んでいたため、刑事課の刑事も呼ばれた。


 美代子は帳面を提出した。御堂は録音を差し出した。涼介が署名した書類、私のスマホに残っていた写真、録音、ホテルの利用記録も、弁護士と警察へ提出された。


 莉奈は詐欺への関与、傷害未遂、脅迫への協力について任意同行を求められた。御堂は詐欺と傷害への協力、霊能名目での高額請求の件で身柄を押さえられた。


 涼介は完全に取り乱し、精神科と連携している医療機関で鑑定を受けることになった。


 警察署を出たとき、まだ夜は明けきっていなかった。


 通りに人影はなく、コンビニの明かりだけがやけに眩しい。明け方の風が頬を撫で、胸の奥に詰まっていた息が少しだけ抜けた。


「出てきて」


 街灯の下に、赤い影が現れた。


 茜はさっきよりも薄くなっていた。姿を現し、私に憑いたことで、かなりの怨念を消耗したのだろう。赤いスカートの裾は、今にも風に溶けそうな霧に見えた。


 それでも彼女はそこに立っていた。まだ怖い。けれど最初のような殺意だけの存在では、もうなかった。


「ありがとう」


 本心だった。


 彼女がいなければ、今夜、あの部屋で死んでいたのは私だった。


 茜は私を見つめ、初めて悪意のない笑みを浮かべた。青白い顔にその笑みが乗ると、やはり少し怖かったけれど。


 彼女は手を上げ、空中に文字を書いた。


 その文字が浮かんだ瞬間、胸がきゅっと締まった。ホテルで私は、力を借りる代わりに、自分の命を差し出すと約束していた。


【約束を果たして】


 私はバッグの中の離婚協議書に触れた。


 指先には、紙の感触が残っている。怖さはある。けれど今夜あったすべてに比べれば、その怖さは不思議なくらい静かだった。


 私は彼女を見て、声が震えないようにした。


「もちろん」


「どうやって持っていくの?」


 茜は私の前まで漂い、冷たい指先を額に当てた。


 寒気が頭の奥まで突き抜ける。それでも私は避けなかった。


 一分が過ぎた。


 死は来なかった。


 茜は手を離し、嫌そうにスカートの裾で指先を拭った。新しい文字が空中へ浮かぶ。そこには、どうしようもないほどの嫌悪が混じっていた。


 その瞬間、私は少し笑いそうになった。


【あなたの命、苦すぎてまずい】


【それに、私は女を殺さない】


 私は呆然とした。


 茜は警察署の方角を指さし、目の奥を赤く光らせる。最初から彼女は、私を狙っていたわけではない。ただ私に、抵抗する覚悟があるかを確かめていたのだ。


「じゃあ、最初から……」


【欲しいのは、あの男の寿命】


【私を殺して、あなたまで殺そうとした。ああいうゴミのほうが、回収価値は高い】


 涼介の会社を思い出した。


 あのITコンサル会社は、古いビルの一室を借りていた。すぐ隣には、昔使われていた精神科病院の跡地がある。茜は生前その一帯に縛られ、死後は御堂の護符によって鏡へ閉じ込められていた。


 すべての因果は、最後に同じ場所へ戻っていく。


「でも今は警察に見張られてる。入れないんじゃない?」


 茜は冷たい笑みを浮かべた。


 空中の文字が、朝の風に揺れる。まるで、あの世から届いた通知書のようだった。彼女は警察署の方を見て、迷いなく文字を続けた。


【ずっと警察署にいるわけじゃない。鑑定が終われば、精神科病棟へ送られる】


【そこは私の縄張り】


 私は買ったばかりのミネラルウォーターを掲げた。ボトルについた水滴が指先へ滑り落ちる。こんな祝杯の上げ方は馬鹿げている。けれど、この明け方にはちょうどよかった。


「それじゃあ、食事を楽しんで」


 茜は私を一瞥し、ゆっくりと消えていった。


 最後に空中へ残ったのは、薄い文字だった。風で消えそうになりながらも、私の目にははっきりと読めた。


【ちゃんと生きて。私たちの分まで】


 その文字を見て、目の奥が熱くなった。


 生きる。


 ただ生き延びるのではない。


 きれいに、生きてやる。



 7



 三か月後、涼介の事件は一つの区切りを迎えた。


 彼は保険金詐欺未遂、殺人予備、傷害、脅迫、監禁、そして会社経営に関する脱税や架空経費の件で起訴された。精神鑑定では妄想と幻視が確認されたが、完全に責任能力が否定される状態ではないと判断された。


 裁判所は実刑判決を下し、服役中は精神科治療を受けることになった。涼介は医療設備のある刑務施設へ移送された。


 莉奈は妊娠していたこと、そして取り調べで多くを供述したことから執行猶予付きの判決を受けた。けれど会社は解雇され、評判は地に落ち、借金取りが彼女の住むアパートの前に毎日のように現れるようになった。


 御堂は詐欺、傷害への関与、そして他の案件との関連もあり、懲役十年の判決を受けた。収監されてしばらくして、夜中に心臓発作を起こし、施設内の医務室で死んだ。


 その知らせを聞いたとき、私は少しも驚かなかった。ただ、女幽霊に踏みつけられていたあの顔を思い出し、因果は判決書より早く届くのだと思った。


 涼介に面会へ行った日は、よく晴れていた。


 厚いガラス越しに見た男を、私はほとんど認識できなかった。ひどく痩せ、目の下は落ち窪み、髪も半分ほど抜けている。かつてあれほど気にしていたスーツも腕時計もなく、灰色の服だけを着ていた。


 彼は部屋の隅で、見えない何かに向かって何度も頭を下げていた。


 看守がそばに立ち、慣れた疲れを含んだ声で小さく言う。私は涼介の腕を見た。露出した皮膚には、青紫の痕がびっしり残っていた。


「やめてくれ……ごめんなさい……脚を噛まないでくれ……」


「あの人、妙なんです。毎晩、誰かに脚を食われるって叫ぶんですよ。監視カメラには何も映っていないのに、身体にはいつも噛み跡みたいな痣が出る」


 茜が食事をしている。


 少しずつ、丁寧に。


 涼介は私の視線に気づき、勢いよく顔を上げた。私を見るなり、目に恐怖の光が弾ける。


 彼はガラスに飛びつき、両手で叩いた。爪がガラスをこすり、耳障りな音を立てる。


 私は受話器を取った。恐怖に歪んだその顔を見る。かつてあれほど偉そうだった男は、今やまともに命乞いをすることもできなくなっていた。


「凛! 助けてくれ! ここから出してくれ! あいつは本物だ。本当に俺を食ってる!」


「ここ、あなたに合ってると思う」


「嫌だ! こんなところにいたくない! 金ならある。全部やる。だから出してくれ!」


 彼は顔をガラスに押しつけ、表情を歪ませた。


 私は軽く笑った。その笑みだけで、彼の中に残っていた最後の希望が砕けたのがわかった。


「あなたのお金?」


「借金と賠償と税金で、ほとんど消えたわ。追回された分は弁護士が手続きしている。前妻として少しだけ優しくしておいたから、領置金で日用品くらいは買えると思う」


 涼介は絶望したように床へずり落ちた。


 次の瞬間、彼の目が大きく見開かれ、私の背後を凝視する。私は振り返った。何もない。


 けれど彼の目には、茜が私の背に張りつき、牙を見せながら勝利のピースサインをしているように見えたらしい。


 なかなか見応えのある光景だったのだろう。


 涼介は頭を抱え、床の上で転げ回った。


「うわああああっ!」


 職員たちが駆け込み、慣れた手つきで彼を押さえる。


 私は受話器を置き、面会室を出た。


 外へ出ると、陽射しが肩に落ちた。その瞬間、ずっと私のそばにいた赤い影が、ようやく背を向けて去っていったような気がした。



 8



 刑務施設を出たあと、私はあの古いマンションへ車を走らせた。


 部屋はもう売却済みで、今日は引き渡しの日だった。仲介業者が新しい買い主と一緒に待っている。相手は若い夫婦で、結婚して間もないのだろう。手をつなぎ、隠しきれない期待を顔に浮かべていた。


 女性のほうが新しく張り替えた壁紙に触れ、目を輝かせる。


 私はかつて自分を閉じ込めていた場所を見た。心は驚くほど静かだった。もうここは家でも、檻でもない。これから誰かのものになる、ただの部屋だ。


「七瀬さん、このお部屋、本当にきれいに使われていたんですね」


「どうか、お幸せに」


 最後の書類に署名し、残金を受け取った。


 最後の段ボールをトランクへ積み込もうとしたとき、視界の端に誰かが映った。道端の木の下に、白いワンピースを着た若い女性が立っていた。


 顔色は青白い。けれど、とても清らかな顔立ちだった。


 彼女は私へ小さく笑いかけ、路地へ入っていく。その後ろ姿は、生前の茜にとてもよく似ていた。


 私は数秒、そこに立ち尽くした。


 それから、自然に受け入れた。


 きっと彼女は、ようやく手放せたのだ。


 車に乗り込み、エンジンをかける。


 スマホが鳴った。銀行からの入金通知だった。警察が追回した涼介の隠し資産の一部から、手続き後、私に返される分が振り込まれていた。


 数字の列を見て、私は思わず口笛を吹いた。


 昇進、財産、夫の退場。


 夫は死んでいないけれど、まあ似たようなものだ。


 御堂から手に入れた黒い手帳を破り、紙片を車窓から外へ放った。風に巻かれて、紙は道路の端へ散っていく。


 過去のすべても、もう散っていい。


 車が流れに乗る。


 前には広い道が続いていた。私の新しい人生でもあった。


 この街には、結婚、暴力、借金、嘘に閉じ込められている女たちが、まだたくさんいる。


 それでも知っている。


 抵抗すれば、闇は必ず一歩下がる。


 茜は言っていた。


 私たちは被害者だった。


 でも、永遠に弱者でいる必要はない。


 闇がこちらを見つめてきたら、遠慮なく平手打ちを返せばいい。


 番外 越境パートナー


 一年後、私は相談事務所を開いた。


 事務所の名前は「Restart」。業務内容はきちんとしている。離婚相談、証拠整理、弁護士紹介、財産リスクの確認、DV被害者支援。


 実際に来る相談者たちは、ホームページに書かれた言葉よりずっと追い詰められていた。


 夫から長く暴力を受けているのに、義実家から「精神的に不安定なだけ」と言われた人。


 パートナーに財産を移され、子どもの学費すら払えなくなった人。


 夫の不倫に気づき、離婚したいのに、合法的な証拠の集め方がわからない人。


 私のやり方は、すべて法律の範囲内だ。


 どの探偵事務所がまともかも知っている。LINEの履歴や振込記録をどう保全するかもわかる。いつ警察へ行くべきか、いつ弁護士へつなぐべきか、いつ先に安全な場所へ逃げるべきかも。


 復讐より先に、まず生きて出てほしい。


 そう思っている。


 その日の午後、私は事務所で報告書を確認していた。


 受付スタッフが、一つの封筒を持って入ってくる。差出人の名前はない。宛名には、私の名前だけが書かれていた。


「凛さん、差出人不明です。お名前だけ書いてあります」


 封筒を開けると、中には一枚の絵葉書が入っていた。


 背景は一面の彼岸花。その中央に、二つの影が立っている。


 一人は赤いワンピースの茜。


 もう一人は作務衣姿で、彼女の前に跪き、媚びた顔で足を揉んでいる。あの顔は、御堂玄信だった。


 絵葉書の裏には、荒々しい文字が書かれていた。


【こっちの業務は順調。子分を一人拾った。そっちも繁盛してるらしいね? 次に面倒なクズ男が出たら、線香でも一本あげて呼びな。常連割引で八掛け。——あなたの越境パートナーより】


 私はその絵葉書を見て、声を出して笑った。


 笑っているうちに、少しだけ目元が濡れた。


 絵葉書を額に入れ、デスクの一番目立つ場所へ置く。


 窓の外は明るく、通りには車が流れている。この世界は相変わらず最低だ。けれど、前ほど嫌いではなくなった。


 スタッフがドアをノックし、新しい相談者の資料を手に入ってきた。


「七瀬所長、新規の方です。夫からDVを受けていて、相手は名義財産を母親へ移そうとしているそうです」


「通して」


 私は書類を閉じ、ドアのほうを見た。


 新しい戦いが始まる。


 今度の私は、もう一人ではない。




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