番外編⑤「忠犬の牙、あるいは零度の嫉妬」
その日、風の神殿の接見の間には、不穏な「華やかさ」が満ちていた。
「おお、ダイタニアの至宝、美しき風の柱シルフィ閣下。貴女の瞳を拝見しただけで、我が故郷の青い海を思い出します」
大仰な仕草で跪き、シルフィの白手袋を嵌めた手に唇を寄せようとしているのは、隣国の特使として訪れた若き伯爵、ジュリアンだった。
金髪を揺らし、香水の匂いを漂わせる彼は、大陸でも名の知れた浮き名を流す色事師である。
シルフィは完璧な女神の微笑みを貼り付けたまま、内心で静かに悲鳴を上げていた。
(……近いです。非常に、距離感がおかしいです、この方は)
いつもなら、ここで「シルフィ様!」と危急の声が飛んでくるはずなのだが、今日は後ろに控えている「彼」が、驚くほど静かだった。
シルフィがおそるおそる背後を振り返ると、そこには「発光する大型犬」の面影を完全に消した、氷の彫像が立っていた。
「……特使閣下。我が主君の御手は、外交の調印のためにあるものです。貴国の親愛を示すのであれば、その唇は、あちらに用意した羊皮紙にのみ捧げていただけますか」
ユーロスの声は、シルフィが聞いたこともないほど低く、冷ややかだった。
彼の周囲だけ、物理的に気温が数度下がったのではないかと思えるほどの、絶対零度の威圧感。
「おや、厳しい護衛殿だ。シルフィ様、これほど野暮な男が隣にいては、貴女の慈愛が曇ってしまう。どうでしょう、この会談が終わった後、月の見えるテラスで口直しに……」
ジュリアンがさらに甘い声を重ねようとした、その瞬間。
『メキッ』
静寂の中に、不穏な破砕音が響いた。
ユーロスが握りしめていた儀礼用の長剣の鞘に、彼の指の形そのままの陥没が出来上がっている。
「……お気になさらず。少々、風が騒がしかっただけです」
ユーロスの碧い瞳は、もはやジュリアンを「外交相手」ではなく、「今すぐ塵に還すべき障害物」として認識していた。
「ユ、ユーロス? 顔が、怖いですよ……?」
シルフィが小声で嗜めるが、彼は視線を逸らさない。
「シルフィ様。……蝶の羽のように軽い言葉に耳を貸す必要はありません。あの方が貴女の指一本に触れる前に、私がこの神殿の風をすべて真空に変えて、あの方の言葉ごと窒息させて差し上げます」
「物騒な事を語らないでください! 国際問題になります!」
「問題ありません。……俺の許可なく貴女に触れようとする不届き者は、たとえ王族であろうと、俺がその無礼な手を――」
ユーロスから溢れ出す、ドロドロとした黒い魔圧。
それはかつて魔物を一刀両断した時よりも鋭く、そして粘着質な独占欲に満ちていた。
「ユーロス」
「……はい」
「そこから先は言ってはいけません」
シルフィがすかさず割って入る。
彼のあまりの殺気に、さしもの色事師も「……し、失礼。少々、風が強すぎるようですな」と、顔を青くして引き下がった。
ようやく特使が退室した後、シルフィはドッと肩の力を抜いた。
「……もう。ユーロス、あんなに威嚇しては、交渉が台無しになるところでしたよ」
すると、先ほどまでの氷の魔王はどこへやら、ユーロスは縋るような瞳でシルフィの手を両手で包み込んだ。
「……嫌なのです。あのような男に、貴女が微笑みかけるのも。……貴女が、汚されるような気がして……」
「……汚されませんよ。それに、私はもう『貴方だけの』と言ったはずです」
シルフィが呆れながらも耳まで赤くして答えると、ユーロスは「ッ……!」と再び心臓を押さえて悶絶し始めた。
「……今すぐ。今すぐ結婚してください。もう一刻も、誰の視線にも貴女を晒したくない……!」
「落ち着きなさい! ……でも、今の貴方は、少しだけ頼もしかったですよ」
「……ッ! そのお言葉だけで、あと百年は戦えます!」
結局、いつもの「重すぎる愛」に戻った神殿。
しかしシルフィは、自分のために牙を剥いた彼の、あの恐ろしくも愛おしい「零度の嫉妬」を思い出し、不覚にも少しだけ、心が弾むのを感じていた。




