第15話「不器用な叱責」
悼みの鐘の余韻が薄れ、風の神殿が少しずつ元の日常を取り戻していく中――シルフィは執務室の机で、手元の羽ペンを苛立たしげに走らせていた。
「……また、食堂に姿を見せなかったのですか」
報告に訪れた副団長が、ひどく気まずそうに頷く。
「はい。夕の祈りより前から、ずっと修練場にこもったままでして。昨晩もほとんど寝ていないはずです。サティ始め、見かねた者が声を掛けたのですが、まるで耳に入っていないようで……」
「……わかりました。私が様子を見てきます」
シルフィはペンを置き、立ち上がった。
副団長が慌てて「シルフィ様が自ら赴く必要は――」と引き留めるが、彼女は冷たい声でそれを遮った。
「私は彼の上官です。部下の体調と精神の管理を行うのは、柱としての当然の務めですから」
自らに言い聞かせるような固い言葉を残し、シルフィは足早に執務室を後にした。
この数日、彼女の視線は常にあの不器用な青年の姿を追ってしまっていた。
回廊ですれ違う時の足取り、包帯の増えた手、食事の有無。
彼のすべてが気になって仕方がない。
求婚の言葉を失った彼は、己を追い込むように任務と鍛錬だけに没頭していた。
目の届く範囲で、勝手に傷つき、勝手にすり減っていく仲間を見ているのが、どうしようもなく腹立たしかった。
――それだけのはずだった。
夜の修練場には、重く鋭い風切り音だけが響いていた。
月明かりの下、上半身裸になったユーロスが、ただひたすらに木剣を振るっている。
その体躯には汗が滝のように流れ、握りしめた木剣の柄には、潰れた手の平から滲んだ血がべっとりとこびりついていた。
素振りというより、それは己の肉体を削り取るための自傷行為のようだった。
「……ッ、はぁっ、ぐ……っ!」
荒い呼吸を繰り返し、虚空に浮かぶ己の弱さを叩き斬るように剣を振るう青年。
回廊の陰からその痛々しい姿を見た瞬間、シルフィの胸の中で燻っていた感情が、はっきりと形を持つ。
「いい加減にしなさい!」
凛とした、しかし冷気を孕んだ声が夜の修練場に響く。
ユーロスの肩がビクリと跳ね、振り下ろしかけた木剣が空中でピタリと止まった。
「……シルフィ、様」
振り返った彼の瞳には、深い疲労と、まだ抜け出せない過去への自責が色濃く沈んでいた。
シルフィは目を背けた彼を真っ直ぐ射抜くように見据える。
「こんな夜更けまで、一体何をしているのですか。自分の限界も弁えずに剣を振るうことが、貴方の言う『強くなるための努力』ですか」
「……俺は。もっと、強くならなければならないんです」
ユーロスは血の滲む手で木剣を握り直し、うつむいたまま重い声を絞り出した。
「先輩たちの命を繋いだこの剣で、次こそは絶対に……誰も死なせない、最強の騎士に……っ」
「そうやって己を痛めつけることが、死んだ者への弔いになるとでも?」
シルフィの厳しい言葉に、ユーロスは息を呑んだ。
「貴方のしていることは、ただの自暴自棄です。自分一人で過去の罪を背負い、一人で罰を受けている気になっているだけの……ひどく傲慢な思い上がりです」
シルフィは月明かりの下を歩み寄り、彼の体温が届きそうな距離まで詰めた。
そして、己より一回り以上も大きな青年の――血にまみれた手を両手で真っ直ぐに掴み取った。
「……ッ」
「痛いですか。当然です。肉体が悲鳴を上げているのに、心でそれに蓋をしているのだから」
ユーロスは驚きに目を見開いた。
血と汗にまみれた自分の汚い手を、彼女は嫌がるどころか、体温を伝えるようにしっかりと握りしめている。
彼にとって、泥だらけの幼い日に差し伸べられた、あの温かな手の記憶が蘇る。
「……シルフィ様、俺は――」
「一人で立てないのなら……一人で抱えきれないのなら……私を頼りなさい」
シルフィは彼を見上げ、碧い瞳に強い意志と、不器用な優しさを宿して告げた。
「貴方は、私の部下でしょう。部下の弱さごと背負うのが、上司である私の役目です」
その声は、少し震えていた。
夜風が吹き抜け、彼女の薄緑色の髪がふわりと揺れる。
その顔には、かつての彼が盲目的に崇拝していた、どこか遠くて冷たい「完璧な女神」の微笑みはない。
そこにあるのは、怒り、案じ、真っ直ぐに自分を叱りつけてくれる――血の通った、一人の女性の素顔だった。
(ああ……)
なぜだろう。
彼女に叱られているはずなのに――
胸の奥が、軽くなっていく。
「……すみません」
ユーロスの手から、ポロリと木剣がこぼれ落ちた。
彼は深く息を吐き出し、ゆっくりと、その場で片膝をついた。
それは以前のような大仰で芝居がかったものではなく、深く、静かな礼だった。
「……少しだけ。貴女の強さに、甘えさせてください」
その声からは、年相応の青さと、柔らかな誠意――
「ええ。いくらでも甘えなさい。その代わり、明日の朝食は必ず食堂で摂ること。……いいですね?」
少しだけ上ずったシルフィの声に、ユーロスはフッと、数日ぶりに微かな、けれど確かな笑みをこぼした。
「はい」
静かな修練場。
月明かりの下、互いの体温と存在の重さを、夜の冷気がただ静かに、そして確かに分かち合っていた。




