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短編読み切り

セピアの雨

作者: 空野 翔
掲載日:2026/06/13

 雨の音がする。カーテンを閉めたままの部屋で、俺はまたスマホを手に取っていた。LINEのトーク画面。彼女との最後のやりとり。既読がついたまま、四ヶ月近く経つ。俺の返信はない。削除、というボタンがある。長押しすれば出てくる。それだけのことだ。分かっている。でも何度やっても、確認画面が出るあたりで指が止まる。画面を閉じて、またしばらくしてから開いて、同じことをする。今夜も、もう三回やった。

 自分でも呆れている。本当に。


 出会いは三年前の秋だった。共通の友人に連れていかれた飲み会で、彼女はテーブルの端のほうに座って、誰かの話を聞きながら静かに笑っていた。笑い声が大きいわけじゃない。ただその人の話をちゃんと聞いているのが、少し離れたところからでも分かった。そういう人間がいるということを、俺はあのとき初めて知ったような気がした。


 付き合いはじめてからの記憶は、断片的に残っている。冬の水族館。クラゲの前で彼女が「なんか眠くなるね」と言って、俺は笑いながら同意した。それだけの会話なのに、帰りの電車でずっと反芻していた。眠くなるね、という言葉を。

 春先に行った海沿いの町。強い風で彼女が髪を押さえながら振り返った瞬間、逆光で少し滲んで見えた。スマホで撮った写真は、セピアがかった色に仕上がった。

 好きだった、と言えるのはそういう場面たちだ。大きな何かがあったわけじゃない。でも、それがかえって困る。輪郭のはっきりしないものは、どこから手放していいか分からない。


 終わりは唐突だったと言えば嘘になる。じわじわと、何かが削れていくような時間が続いていた。俺が仕事を理由にして、彼女の時間を後回しにすることが増えていた。自分では「しかたない」と思っていた。でも「しかたない」と「向き合わなかった」は、たぶん違う。今ならそう思う。当時は考えなかった。

 最後の喧嘩は、彼女の誕生日の直前だった。約束していた日に、仕事の打ち合わせが入った。断れると思えば断れたかもしれない。でも俺は断らなかった。それだけのことだ。電話で謝ったとき、彼女はしばらく黙っていた。怒っているふうでも、泣いているふうでもなかった。ただ、何かを確認しているような沈黙だった。それから、静かに言った。

「もう、あなたじゃなくていい」

俺は何も言えなかった。少し間があって、彼女が続けた。

「一緒にいた意味、分からなくなった」

冷たい声じゃなかった。むしろ、感情が抜け落ちた声だった。そっちのほうがずっと怖かった。言い返す言葉を探したけれど、何も出てこなかった。図星だから黙ったわけじゃない。ただ、その言葉に触れたら何かが壊れると分かっていた。だから何もしなかった。何もできなかった。電話が切れた。


 それから四ヶ月が経った。俺は普通に暮らしている。朝起きて、飯を食って、仕事に行く。飲みに誘われれば行くし、笑うこともある。彼女のことを考えていない時間も、確かにある。

 ただ、夜になると戻ってくる。特に雨の夜は。なぜ雨だと思い出すのか、理屈では分からない。ただ雨の音がすると、何かの境界線が溶けるような感じがして、そういうとき彼女のことを考えている自分がいる。

 まだ終わったと思いたくなかった。ずっとそれがあった。終わったのは分かっている。四ヶ月も既読のまま放置している時点で終わっている。でも、頭で理解していることと、腹の底から納得することの間には、埋まらない距離がある。俺はまだその距離の中にいた。情けないとは思う。引きずっていることも、LINEを消せないことも、雨が降るたびに思い出していることも。分かっている。それでも、どうにもならない。


 引っ越しの荷物を整理していて、クローゼットの奥から段ボール箱が出てきた。開けると中には、雑多なものに混じって写真が数枚あった。スマホで撮ってプリントしたもの。二人でアルバムを作ろうと言っていた頃の残骸だ。結局、アルバムは作らなかった。

 写真を手に取った。クラゲの水槽の前で笑っている彼女。ピントが少しぶれている。海沿いの町で風に髪を押さえながらこちらを向いている彼女。あの日の夕方の光が横から差し込んで、セピア色に焼きついたまま残っている。窓の外では雨が降っていた。街灯の光が雨粒に滲んで、ガラスを流れている。その色が、手の中の写真と似ていた。

捨てようと思った。二つに折ろうとして、指に力を入れた。

止まった。できないわけじゃない。紙だ、折れる。でも、できなかった。

手放せば楽になると分かっているのに、その勇気だけが足りない。自分がひどく情けなかった。こんなものを捨てられない。泣くわけでもなく、ただ写真を持って立っていた。雨の音がしていた。窓の光が滲んでいた。しばらくして、俺は写真を箱に戻した。蓋をして、クローゼットの奥に押し込んだ。


 窓の外を見た。雨はまだ降っていた。街灯の光が、さっきと同じように滲んでいた。彼女のことが好きだった。たぶん、まだ好きだ。それはもう、どうしようもない。

 ただ箱の蓋を閉めたとき、何かがほんのわずかだけ静まった気がした。前に進んだわけじゃない。未練がなくなったわけでも、もちろんない。ただ、呼吸が少しだけ楽になった気がした。

 気がした、というだけだ。俺はカーテンを閉めて、電気を消した。の音は、しばらく続いていた。


―終わり―


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