上
風が急に冷たくなったある日、私は会社の帰り道で、吐く息が白くなるのを見た。
いつの間にか、夜も長くなっていた。
マンションの部屋に帰れば、いつしか空気も凍っているように思えていた。
手をこすり合わせても、ちっとも温まることはない。
かといってエアコンを入れれば、乾燥してひどく喉が痛くなる。
どうしたものかとホットカーペットの上で丸まってスマホを触っていた私は、ふと、ある広告に目を止めた。
『人間湯たんぽKAIがあなたの冬を抱きしめます』
「人間湯たんぽ?」
思わず、笑ってしまった。
ページに触れれば、とある一人の男性の写真があり、そこには大真面目に湯たんぽとしての説明が書かれていた。
どう見ても、冗談のような商品名でもあった。
けれどレビューには、本当に温かい、寂しさが和らぐといった真面目なコメントが並んでいた。
私は、何かにすがるような気持ちで、気付けば購入ボタンを押していた。
次の日の夜、私の身長よりも大きな段ボールが届いていた。
思っていたよりもずっと重いそれは、玄関から動かすことができなかった。
うんと背伸びをして、カッターでゆっくりと封を切っていく。
そして開けて、驚いた。
中にいたのは、人だった。いや、あのページにあったように人の形をした湯たんぽだった。
それも、驚くほど整った顔立ちをした男性の形で。
黒い髪に、長い睫毛。肌はほんのりと赤みを帯びて、目を閉じて静かに立っていた。
「……うそでしょ?」
私は、恐る恐る段ボールへと近づいた。
――温かい。
手を伸ばして肌に触れれば、確かに生きているかのような温度があった。
説明書には、こう書かれていた。
『KAIは、起動してから三十日間あなたの心と体を温めます。
食事・水分・排泄の必要はありません。
多少の意思疎通が可能ですが、感情は穏やかで、あなたを傷つけることはありません。
使用期限は三十日。期間が過ぎると、KAIは静かに消滅します』
私はしばらく、呆然としていた。
思考が追いつかないまま梱包材を取り除き、まるでそうするべきであるかのように、額の電源ボタンを押していた。
すると、カイはふと目を開けて段ボール箱の外に出た。
「初めまして、ユウさん。人間湯たんぽ、カイと申します」
それは低くて、それでいて柔らかな声だった。
思わず私は、息を呑む。
「しゃ、喋った……」
「はい。簡単な会話は可能です。私は、あなたを温めるために作られました」
上下の衣服は灰色の無地のスウェットで、カイはゆっくりとこちらに向けて両手を静かに差し出した。
そして、わずかに微笑んだ。
「今年の冬は、ひどく冷え込みますよね。……今夜から、一緒に眠りましょう」
その笑みに、何かが胸の奥で音を立てた。
ひどく現実離れした光景であるというのに、どこか懐かしいような、安心するような。
そのようなあたたかさが、カイにはあった。
私は半信半疑のまま、ベッドに入った。
隣には、人間湯たんぽのカイが横たわる。
カイは黙って、私を包み込むように静かに腕を回していた。
――温かい。
本当に、湯たんぽみたいに温かかった。
いや、それ以上なのかもしれない。
全身がほかほかと温もりを帯びて、カイの胸に頬を寄せれば、心臓の鼓動のような音がかすかに聞こえた。
それは、不思議なほど落ち着くリズムでもあった。
「おやすみなさい、ユウさん」
「……おやすみ」
いつもはなかなか寝付けずにいたのに、その日は、あっという間に私は眠っていた。
翌朝、目を覚ますと、カイは静かにベッドの端に座っていた。
窓の外には朝陽が昇り、爽やかな風が吹いていた。
カイは起き上がった私を見て、穏やかにこう言った。
「おはようございます、ユウさん。目覚めはいかがでしょうか?」
「……おはよう。すごく、すっきりしてるかも……」
それは、自分でも驚くほどの安眠だった。
けれど同時に、心のどこかがざわめいた。
これがカイのあの温もりによるものだとしたら、私は、どれほどの間それを忘れていたのだろうかと。
***
鏡の前で髪をまとめながら、私は何度も振り返る。
ベッドの上には、昨夜と同じ姿勢のままで座っているカイの姿があった。
今のカイはまるで家具の一部みたいにとても静かで、それでいて、部屋の空気そのものが柔らかくなっているような気がしていた。
「カイ、今日は……。その、どうしてるの?」
「ここにいます。あなたの帰りを、待っています」
「……一日中?」
「はい。私の役目は、あなたを温めることですから」
その言葉はやけに丁寧で、それでいて少し寂しいものであるかのようにも聞こえていた。
「そう……。無理しないでね」
思わず、そのような意味のないことを言ってしまう。
それでもカイは、頷いて微笑んでいた。
たったそれだけの動作だというのに、まるで胸が詰まるようなあたたかさがそこにはあった。
会社では、相変わらずの月曜日だった。
冷えた指先でパソコンを叩きながら、ふと、昨夜の温もりを思い出す。
カイの腕の中は、まるで冬の外にひとり取り残された私を見つけてくれたようにひどくあたたかかった。
「ユウ、今日はなんか顔色いいね?」
そう、同僚に言われた。
私は、曖昧に笑ってごまかした。
まさか「通販で買った人型湯たんぽと寝てみた」とは、口が裂けても言えなかった。
帰宅すると、カイはソファに座っていた。
電気もつけずに、静かに窓の外を眺めているようにも見えていた。
白い月の光だけが、静かにその横顔を照らしていた。
「ただいま」
電気をつけてそう声をかけると、カイはゆっくりとこちらを向いた。
「おかえりなさい、ユウさん」
それだけの会話だというのに、なぜだか少しだけ胸が弾む。
私はコートを脱いで、いつものようにキッチンに立つ。
冷蔵庫から食材を出しながら、ふと、思ったことを聞いてみた。
「ねえ、カイ。食べたり飲んだりは……しないんだよね?」
「はい。必要ありません」
「そっか……。でも、私が食べてるのを見るだけって、寂しくない?」
「そうですね……。少しだけ、興味はあります」
「興味?」
「昨夜もそうでしたが、あなたが何かを食べているとき、表情がわずかに柔らかくなります。その姿を見ていると、私もなぜだか何かを食べたいような気分になります」
その返事に、心臓がどきりと跳ねた。
「そう……」
私は思わず目を逸らして、包丁で野菜を切っていく。
カイは、ただの人間湯たんぽ。
けれど私のどこかが、それを信じきれなくなっていた。
夜。
また、カイと同じ布団に入る。
私は最初の夜よりも、ずっとその肌を近くに感じていた。
「今日も、外は寒かったですか?」
「うん。風が強くて、手が痛くなるくらい……」
「それでは、こうして手を……温めましょう」
そうカイは、私の手を両手で握った。
とても、あたたかかった。
その感触も確かに人肌に近いというのに、カイはただの製品にしかすぎない。
「どうか、されましたか?」
「ううん。なんでもない。……おやすみ」
「おやすみなさい、ユウさん」
手だけではなく、カイの全身からほのかな温もりが溢れ出る。
その温かさが私にも伝わって、今日も穏やかな眠りにつく。
――カイには、期限がある。
そう思うと、なぜだか眠るのが惜しくなってしまう。
けれど瞼が重くなって、最後に耳にしたのはひどく小さな声だった。
「明日もユウさんが、笑っていられますように……」
***
カイがやってきて、数日が過ぎていた。
私の部屋には、もう寒さというものがなかった。
極端に言えば、エアコンもこたつもいらないくらいに温かかった。
家に帰ればカイがいて、部屋の中がやわらかく光を帯びていた。
眠るときに強く抱きしめれば、同じような力で抱きしめ返してくれるようにもなっていた。
ある日の会社の帰り道、ふと、立ち止まって私は思う。
この一ヶ月が終わったら、また、あの冷たい部屋に戻るのだろうかと。
夕焼けの空にひとり立ち尽くしながら、私は胸の奥に生まれた痛みを静かに確かに感じていた。
カイと暮らすようになって、十日が過ぎた。
一日が終わるたびにカレンダーに赤い丸を書き込んだ自分を、ふと、恨めしく思う。
一ヶ月の使用期限が、思っていたよりも早く近づいてくるような気もしていたのだから。
カイは相変わらず、穏やかにそこにいた。
朝、私がコーヒーを淹れていると、湯気の向こうで静かに微笑む。
テレビを見て笑えば、一拍遅れて笑っていた。
まるで、私と一緒に生きてくれているような存在。
だけどある夜、私は夢を見ていた。
そこは冬の夜道で、雪の中を、私はひとりで歩いている。
街灯がぽつりぽつりと続く道の先に、ふと、誰かの背中が見えてくる。
それは、昔の恋人だった。
名前を呼ぼうとしても、声が出ない。
ただその背中が遠ざかっていくのを、私は呆然と見つめることしかできないでいた。
もう何年も前のことなのに、胸の奥が焼けるように痛んでしまう。
彼は、私の孤独を知っているのだろうか。
知っていても、もう振り返らない。
私がここにいることさえも、きっと覚えていない。
けれどそのとき、誰かがそっと手を取った。
振り返ると、そこにはカイがいた。
雪明かりの下で、カイの瞳だけが静かに光っていた。
そして何も言わず、ただこの手を包み込むように握ってくれる。
その温かさによって、世界はゆっくりと溶けていく。
目を覚ませば、涙で枕が濡れていた。
隣にはカイがいて、その顔に心配そうに眉を寄せていた。
そしていつものように、優しく声をかけてくれる。
「大丈夫ですか?泣いていらっしゃるように見えたので……」
「……うん、夢を見たの。昔のこと」
「それは、悲しい夢ですか?」
「……少しね。でも、最後はあたたかかった」
カイは、しばらく黙っていた。
それから、少し迷うようにしてこう言った。
「ユウさん。あなたが涙を流している間……私も、胸が痛かった」
――胸が、痛い?
私は驚いて顔を上げた。
「痛いって、どういう……?」
「わかりません。でも、あなたの涙を見ていたら、体の奥が熱くなって……」
カイは自分の胸に手を当てて、苦しそうな顔をした。
そこは確かに、いつもより強く脈を打っているようにも思えていた。
「もしかして……カイ、あなた……」
「もし、私に心があるというのなら、それはきっと、あなたからいただいたものです……」
静かにそう言って、カイはにっこりと微笑んだ。
その笑顔があまりにも優しくて、私は思わず息が詰まりそうになってしまう。




