The story’s 家忘れ病 9
東京で一人暮らしを始めて、
気がつけば長い時間が過ぎていた。
最初は寂しかった。
でも、いつのまにかそれが普通になった。
朝起きて、
仕事に行って、
帰ってきて、
一人でご飯を食べて、
テレビをつけて、
また次の日になる。
それがずっと続いていた。
女性は歩きながら、遠くの山を見る。
その山も昔のままだ。
子どものころ、毎日見ていた山だ。
その景色を見ていると、
別の記憶がゆっくり浮かんでくる。
まだ若かったころのことだ。
東京に行くと決めたときのこと。
あの夜のことを思い出す。
夕方の台所だった。
母が料理をしていた。
味噌汁の匂いがしていた。
父は居間で新聞を読んでいた。
女性はそのとき、言った。
「東京に行こうと思う」
静かな家の中で、
その言葉だけが少し浮いた。
父が新聞を下ろした。
母も手を止めた。
「東京?」
父がゆっくり言った。
女性はうなずいた。
「仕事があるから」
その頃、町にはほとんど仕事がなかった。
高校を出たあと、
近くの会社に入る人もいたが、
長く続けられる仕事は少なかった。
女性はずっと考えていた。
この町を出ることを。
東京に行くことを。
でも、その言葉を言った瞬間、
家の空気が少し変わった。
父は黙ったままだった。
そして少しして言った。
「ここにも仕事はある」
女性は首を振った。
「やりたい仕事じゃない」
父の顔が少しだけ固くなる。
母が小さく言った。
「東京なんて遠いよ」
女性は言った。
「一人でやってみたい」
その言葉は、
今思えば少し強かった。
父は新聞をたたんだ。
そして言った。
「そんな遠くに行って、どうする」
女性は黙らなかった。
若かった。
「ずっとここにいるわけにはいかない」
その言葉で、
父の声が少し大きくなった。
「ここが悪いって言うのか」
女性は首を振った。
でも言葉は止まらなかった。
「そういう意味じゃない」
「じゃあどういう意味だ」
台所の空気が重くなる。
母は黙っていた。
味噌汁の火だけが静かについていた。
女性は言った。
「外で働いてみたいだけ」
父はしばらく黙っていた。
そして小さく言った。
「好きにすればいい」
その言い方は、
許したというより、
諦めたような言い方だった。
女性はそのとき、少し怒っていた。
分かってもらえないと思っていた。
この町に残ることが、
自分の未来ではないと感じていた。
その夜、
家の中は静かだった。
母はいつも通りに食事を出した。
父もいつも通りに食べた。
でも会話は少なかった。
それでも女性は東京に行った。
小さな荷物を持って、
この駅から電車に乗った。
そのときの景色を、
今も覚えている。
女性は歩きながら、
そのことを思い出している。
田んぼの横の道を、ゆっくり歩く。
風は静かだ。
遠くで鳥が鳴く。
女性は思う。
あのとき、
父は本当はどう思っていたのだろう。
怒っていたのか。
寂しかったのか。
それとも、
ただ心配していただけなのか。
今になっては分からない。




