The story’s 家忘れ病 8
電車を降りると、空気が違っていた。
冷たくて、少し湿っていて、どこか土の匂いがする。
女性は駅の小さな改札を出る。
人はあまりいない。
東京で毎日見ている駅とはまったく違う。
改札の外には古いベンチがあり、その向こうには低い山が見える。
女性は小さく息を吐く。
久しぶりだ。
何十年ぶりというほどではないが、
それでも帰るたびに、時間が少し戻ったような気がする場所だ。
駅前の道を歩く。
店はほとんど変わっていない。
古いままの看板。
静かな商店。
車もあまり通らない。
女性はゆっくり歩く。
懐かしい景色だ。
小さな川。
橋。
遠くの畑。
子どものころ、毎日見ていた景色。
橋を渡る。
そのとき、ふと足が止まる。
女性は周りを見る。
山の形も、道の曲がり方も、覚えているはずだ。
でも、胸の奥に小さな空白がある。
実家が、どこにあるのか分からない。
女性はしばらくその場に立っている。
「……あ」
小さく声が出る。
家忘れ病だ。
ニュースでよく聞く。
風みたいに、突然なる。
東京でも何度か見たことがある。
でも、自分がなるとは思っていなかった。
女性はまた歩き出す。
田舎の道は広い。
家と家の間に距離がある。
畑の土の匂いが風に乗ってくる。
遠くで犬が吠えている。
女性はゆっくり歩く。
道を見ながら歩く。
昔、この道を走っていた。
小学生のころ。
友だちと自転車で通った道。
夏の夕方、蝉の声を聞きながら帰った道。
全部覚えているはずなのに、
実家の場所だけが思い出せない。
女性は田んぼの横の道を歩く。
風が水面を揺らす。
稲が少しだけ揺れる。
懐かしい景色だ。
女性は思う。
東京では、こんな景色は見ない。
高い建物。
人の流れ。
電車の音。
それが何十年も続いていた。
東京で一人暮らしを始めて、
気がつけば長い時間が過ぎていた。
最初は寂しかった。
でも、いつのまにかそれが普通になった。
朝起きて、
仕事に行って、
帰ってきて、
一人でご飯を食べて、
テレビをつけて、
また次の日になる。
それがずっと続いていた。




