The story’s 引越し(読み切り)
引っ越すらしい。
らしい、というのは、僕が決めたわけじゃないからだ。
母はある朝、台所で言った。
「来月、ここ出るからね」
味噌汁の湯気の向こうで、いつもと同じ声だった。特別な顔はしていなかった。ただ、少しだけ動きが速かった。
それから家の中は、少しずつ音が変わった。
段ボールが届く音。
ガムテープを引く音。
引き出しを抜く音。
僕はそれを、隣で見ていた。
何をどこへ持っていくのか、どこへ行くのか、聞けば教えてくれたのかもしれない。でも聞かなかった。
母は忙しそうだったし、僕は、忙しい人の邪魔をしないのが上手だった。
⸻
僕の机の上には、何年も前に拾った石がある。
川で拾った丸い石。
校庭で拾った欠けたガラス。
友達がくれた消しゴムのカスみたいな星形の何か。
「それ、いる?」
母が段ボールを持ちながら言う。
「……いる」
僕はそう言って、全部を箱に入れた。
本当は、全部いらないのかもしれない。
でも、ここに置いていくのも変な感じがした。
母は次々と物を分けていく。
いるもの。
いらないもの。
持っていけないもの。
僕はその横で、ただ立っている。
窓の外では、いつもの公園が見える。
滑り台の赤は少し色あせていて、ブランコはいつも少しだけきしむ。
あそこも、もう行かないのかな。
でも、たぶん聞かない。
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最後の夜、家は広かった。
家具が減っただけで、こんなに広くなるんだと思った。
声を出すと、少しだけ響いた。
母は床に座って、スマホで何かを確認している。
「明日は早いからね。朝六時には出るよ」
「うん」
どこへ行くのかは、まだちゃんと知らない。
県外らしい。
新幹線に乗るらしい。
僕は新幹線が好きだ。
速いし、座席のテーブルが好きだ。
コンセントがあると、ちょっと特別な感じがする。
それだけで、少しだけ楽しみだった。
⸻
朝は暗かった。
段ボールはもうない。
残っているのはスーツケースだけ。
家を出るとき、母は鍵を閉めた。
その音が、やけに大きく聞こえた。
僕は振り返らなかった。
振り返ると、何かが決まってしまう気がしたから。
⸻
駅は思ったより明るかった。
自動改札を通るとき、母は言う。
「はぐれないでね」
「うん」
それだけ。
新幹線のホームは風が強い。
白い車体が入ってくると、空気が押し出される。
母は時間ぴったりに動く。
号車を確認して、席を探して、荷物を上げる。
僕は窓側。
発車すると、景色が後ろに流れる。
家も、公園も、学校も、
もう見えない。
母はコンビニで買った袋を開ける。
「ほら」
サンドイッチと、小さな紙パックのジュース。
僕はそれを受け取って食べる。
これからどこへ行くのかは、まだよく分からない。
どんな学校かも、どんな町かも知らない。
でも、サンドイッチの味は同じだった。
卵の味。
パンの柔らかさ。
ジュースの少し甘い感じ。
変わらないものもあるんだと思った。
⸻
トンネルに入ると、窓に自分が映る。
少し眠そうな顔。
知らない場所へ向かっている顔。
母は隣で目を閉じている。
疲れているのかもしれない。
僕は、ただ一緒にいる。
どこへ行くのか分からないまま。
何が変わるのか分からないまま。
でも、母はちゃんと時間を調べて、
ちゃんと切符を買って、
ちゃんと荷物をまとめた。
だからきっと、どこかには着く。
⸻
新しい駅は、知らない匂いがした。
空気が少し冷たい。
駅のアナウンスの声も、少し違う。
タクシーに乗ると、母は住所を言う。
それを聞いても、僕には何も浮かばない。
窓の外を見ていると、
知らない店、知らない道路、知らない人。
世界は、こんなにたくさんあるんだと思った。
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新しい家は、前より少し狭い。
でも、壁は白くて、
床はまだきれいだった。
段ボールがまた積まれる。
母はまた動き始める。
棚を組み立てて、
カーテンをつけて、
洗濯機を確認して。
僕はまた、その横にいる。
「こっちの部屋、あんたね」
母が言う。
小さな部屋。
窓がひとつ。
僕はスーツケースを開けて、
石を取り出して、
机の端に並べる。
丸い石。
欠けたガラス。
星みたいな何か。
ここがどこなのかは、まだよく分からない。
でも、その石は知っている。




