The story’s 選択 6 完結
住んでいる街が、世界のすべてだと思っていたわけではない。
ただ、そこが今の居場所だった。
書店があり、店長と由紀がいて、澪のカフェがあり、蒼と座る公園がある。
歩けば、だいたい知っている道に出る。
それだけで、十分だと感じていた。
ある休日。
陽は公園の芝生に寝転んでいた。
空は薄く晴れ、雲がゆっくり流れている。
ギターは持ってきていない。
本もない。
ただ、何もせずにいる。
遠くで子どもが笑い、犬が走り、風が葉を揺らす。
目を閉じる。
この街の音は、もう体に馴染んでいる。
「何してるの」
突然、影が落ちる。
目を開けると、澪が立っていた。
逆光で、輪郭だけが少し光っている。
「何も」
「私も」
澪は隣に座る。
しばらく二人で空を見る。
「暇だね」
「うん」
沈黙。
「どこか行く?」
澪が言う。
「どこへ」
「別の街」
その言葉に、少しだけ胸が動く。
別の街。
ここ以外の外。
施設を出たとき、世界はひとつだった。
今は、いくつもあると知っている。
「行ってみる?」
澪は軽い調子で言う。
深く考えない。
「行こう」
それだけで、決まった。
駅へ向かう。
休日の昼下がり。
ホームには、いろいろな人がいる。
スーツ姿の人。
大きな荷物を持った家族。
一人でイヤホンをしている若者。
電車に乗る。
揺れが、心地よい。
窓の外の景色が流れていく。
見慣れた建物が減り、知らない店、知らない看板が増える。
川を渡る。
トンネルに入る。
暗闇の中、窓に自分と澪の姿が映る。
少しだけ、旅をしている気分になる。
「なんか、施設出た日みたい」
澪が言う。
「うん。少しだけ」
あのときほどの眩しさはない。
けれど、似ている。
知らない場所へ向かう感覚。
電車がゆっくり減速する。
見知らぬ駅名がアナウンスで流れる。
ドアが開き、知らない空気が入り込む。
ホームに降りると、音の響きが少し違った。
人の話し声が、どこか速い。
歩く足音も、せわしない。
「降りちゃったね」
澪が小さく笑う。
「うん」
改札を抜ける。
駅前は、自分たちの街よりも高い建物が多い。
ガラス張りのビル。
大きなスクリーン。
絶え間なく流れる音楽。
人の波に押されるように歩く。
「ここで暮らしてる人は、これが普通なんだね」
澪が言う。
陽はうなずく。
自分の街では、顔を覚えられる。
書店に来る常連の足音で、誰かわかる。
公園のベンチも、だいたい同じ人が座る。
けれど、ここでは、誰も自分たちを知らない。
それが少し、軽い。
同時に、少し、心細い。
商店街に入る。
狭い通りに、古い店と新しい店が混ざっている。
八百屋の呼び声。
揚げ物の匂い。
古着屋の色とりどりの布。
店先で、年配の男性が将棋を指している。
子どもが駄菓子を選んでいる。
さっきまでのビル街とは、まるで違う。
「同じ街なのに、全然違う」
澪がつぶやく。
陽は、ゆっくり歩きながら思う。
自分の街にも、きっとまだ知らない場所がある。
見ようとしなかっただけかもしれない。
小さな橋を渡る。
川は、自分たちの街を流れる川よりも広い。
水面に夕方の光が反射している。
欄干にもたれ、しばらく眺める。
「ここで生まれて、ここで大きくなる人もいるんだよね」
澪が言う。
「うん」
その人たちにとって、自分たちの街は「別の街」だ。
知らないまま、関わらないまま、人生が終わる人もいるかもしれない。
世界は広い。
でも、すべてを知ることはできない。
それが、少しだけ切ない。
路地に入ると、急に静かになる。
洗濯物が風に揺れている。
窓から夕飯の匂いが漂う。
テレビの音。
誰かが笑う声。
食器の触れ合う音。
どこにでもある光景。
けれど、ここは自分の居場所ではない。
陽は、胸の奥がきゅっとなるのを感じる。
うらやましいわけではない。
欲しいわけでもない。
ただ、自分がこの時間の外側にいる感覚。
澪も同じことを感じているのか、静かだ。
やがて、空が橙色に染まる。
知らない街の夕焼け。
太陽は同じなのに、色が違う気がする。
公園を見つけ、ベンチに座る。
子どもたちが帰り、ブランコが揺れている。
若い母親が「また明日ね」と言って手を引く。
その言葉が、やけに耳に残る。
また明日。
ここで暮らす人にとっては、続いていく日常。
自分たちは、今日だけの通りすがり。
「ねえ」
澪が小さく言う。
「もし、ここで暮らしてたら、今とは違う私たちになってたのかな」
陽は考える。
書店も、店長も、由紀も、蒼もいない生活。
別の友達。
別の仕事。
別の公園。
「たぶん、違うと思う」
「やっぱり?」
「うん。でも、今の私たちも、どこかの誰かにとっては“別の街の人”なんだと思う」
澪は少し黙ってから、うなずく。
「そっか」
風が吹く。
落ち葉が足元を転がる。
陽は思う。
施設を出た日、世界はひとつの大きな塊だった。
今は、無数の小さな世界に分かれて見える。
それぞれの街。
それぞれの家。
それぞれの生活。
全部に入ることはできない。
全部を選ぶこともできない。
だからこそ、今立っている場所が、少しだけ大切になる。
帰りの電車に乗る。
窓に映る自分と澪の顔。
行きよりも、少し静かだ。
疲れているわけではない。
ただ、考えている。
自分の街の灯りが見えたとき、胸の奥がほどける。
改札を出る。
見慣れたコンビニ。
見慣れた交差点。
遠くに、書店の看板。
「やっぱり、落ち着くね」
澪が言う。
「うん」




