The story’s 選択 5
春の光が、少しずつ濃くなっていくころだった。
書店の前の並木に、小さな葉が出始める。
冬の白が消え、街はまた色を取り戻す。
その日も、特別なことはなかった。
午前中は雑誌の入れ替え。
昼過ぎに常連客が数人。
夕方、静かな時間。
ドアのベルが鳴る。
振り向くと、見慣れない顔が立っていた。
同じくらいの年齢だろう。
背は少し高く、目つきは落ち着いている。
けれど、店内を見回す視線は、わずかに迷っている。
「何かお探しですか」
声をかける。
少し間があってから、答えが返る。
「……よく、わからなくて」
曖昧な返事。
「本を、探してるんですけど」
「どんな本ですか」
沈黙。
本棚の前で、言葉を選んでいるようだった。
「自分が、どうしたいのか、わからなくて」
視線がこちらに向く。
まっすぐで、少しだけ困っている目。
「そういうのが、書いてある本ってありますか」
完璧な答えはないと知っている。
それでも、棚の一角へ案内する。
エッセイのコーナー。
若い人向けの自己探求の本。
誰かが迷いながら書いた文章たち。
「正解は書いてないと思います。でも、考えるきっかけにはなるかもしれません」
相手は一冊を手に取る。
ページをぱらぱらとめくる。
「あなたは、わかってるんですか」
唐突に聞かれる。
「何をですか」
「自分が、どうしたいか」
少し考える。
即答はできない。
「まだ、途中です」
正直に言う。
その人は、小さく笑った。
「同じですね」
その一言で、空気が少しやわらぐ。
結局、三冊を買っていった。
会計のとき、名前を聞かれる。
「陽」
「俺は、蒼」
その音を覚える。
それで終わると思っていた。
けれど、数日後、またベルが鳴った。
蒼だった。
「この前の本、読んだ?」
自然に尋ねる。
「うん。全部はまだ。でも、少し」
手には、別の本。
「今日は、小説を」
棚を一緒に回る。
どんな話が好きか、どんな場面で本を読むか、少しずつ話す。
蒼は、最近施設を出たばかりだと言った。
名前を決めたばかり。
住む場所も、まだ落ち着かないらしい。
「外、どう?」
以前、澪に聞かれた質問を思い出す。
「広い」
蒼も、同じ言葉を使った。
「広すぎる、かも」
その言い方が、少し違った。
閉店後、店の前で立ち話をする。
空は薄い紫色。
車の音が遠くを流れる。
「ギター弾くって言ってたよね」
蒼が言う。
「うん」
「聴いてみたい」
少し迷う。
まだ上手くない。
けれど、断る理由もない。
「公園でなら」
その週末、公園で待ち合わせる。
ベンチに座り、ギターを構える。
最初の音が、少し震える。
蒼は何も言わず、最後まで聞いた。
拍手はない。
「いいね」
それだけ。
「どこが?」
思わず聞く。
「うまいかどうかじゃなくて、続いてる感じがする」
続いてる。
自分では気づかなかった表現。
「ありがとう」
その言葉が、自然に出る。
蒼は笑う。
「今度は、俺の話も聞いてよ」
そう言って、これまでのことを少し話し始める。
施設でのこと。
出るか迷った日。
外に出て、最初に食べたラーメンが熱すぎたこと。
夜、急に静かすぎて眠れなかったこと。
似ている部分もあれば、違う部分もある。
陽は、聞く。
途中で口を挟まず、評価せず、ただ聞く。
話し終えた蒼が言う。
「なんか、軽くなった」
「よかった」
風が吹く。
木の葉が揺れる。
沈黙が落ちるが、気まずくない。
何も話さなくても、隣にいられる。
それが、少し新しい。
数週間のうちに、店で会い、公園で会い、時にはカフェで会うようになる。
澪にも紹介した。
「蒼。友達」
その言葉を口にした瞬間、少しだけ実感が遅れてやってくる。
友達。
選んだ関係。
蒼は澪に軽く手を振る。
三人で話す時間もあれば、二人で歩く日もある。
ある夜、蒼が言った。
「最初に話しかけてくれて、助かった」
「仕事だから」
そう言いながら、少し考える。
もし、あの日、声をかけなかったら。
もし、蒼が別の店に入っていたら。
この関係は、なかった。
偶然のようで、選択の積み重ね。
「でも、よかった」
付け足す。
蒼はうなずく。
「うん。俺も」
帰り道、街灯の下を並んで歩く。
特別な約束はない。
永遠の保証もない。
ただ、明日も会うかもしれない、というゆるやかな予感。
それで十分だと思える




