The story’s 選択 3
店長と由紀が親子になってからも、書店の日常は大きくは変わらなかった。
朝、シャッターを上げる音。
本の匂い。
レジの小さな電子音。
けれど、陽の中では、少しだけ何かが変わっていた。
「家族」という形を、間近で見たからかもしれない。
焦りではなく、ただ静かな興味のようなものが芽生えた。
——この世界には、まだ知らないものがいくつあるのだろう。
まず、本を読む時間が増えた。
仕事の合間に、休憩中に、閉店後に。
物語の中で、誰かが遠くへ旅をする。
誰かが裏切られ、許し、また笑う。
誰かが海を渡り、山を越え、恋をする。
ページをめくるたび、知らなかった感情の名前を知る。
「懐かしい」
「誇らしい」
「やるせない」
施設では、感情は整理して教えられた。
怒りはこう扱う。悲しみはこう対処する。
けれど物語の中の感情は、もっと曖昧で、矛盾していて、説明がつかない。
それが、少し面白い。
ある日、店長が一冊の本を差し出した。
「これ、読んでみなさい」
古い装丁の小説だった。
家族がテーマらしい。
「どうしてこれを?」
「なんとなく」
読み終えたあと、感想を聞かれた。
少し考えて、答える。
「羨ましいとは、思わなかったです。でも、あたたかいとは思いました」
店長はうなずいた。
「それでいいのよ」
それでいい。
そう言われると、肩の力が抜ける。
本だけではなく、音楽も少しずつ増えていった。
ギターは、まだ上手くない。
指の皮は硬くなり、コードの移り変わりも滑らかになってきたが、完璧とはほど遠い。
ある夜、公園で弾いていると、知らない少年が近づいてきた。
「それ、なんの曲?」
「オリジナルです」
正確には、どこかで聞いたメロディを真似しながら、少し変えただけのものだ。
「へえ」
少年はベンチに座り、最後まで聞いた。
拍手はない。
ただ、「悪くないね」と言って立ち去った。
それだけなのに、胸の奥が少しだけ温かくなる。
音は、誰かに届く。
そう思うと、練習の時間が少し楽しくなった。
休日は、公園を歩くことが増えた。
特別な目的はない。
ベンチに座る人。
犬を連れて走る人。
恋人らしき二人が、同じイヤホンを分け合っている。
風に揺れる木の葉。
池の水面に落ちる光。
施設の庭は整いすぎていた。
ここは、少し雑で、少し不規則で、それがいい。
草の上に寝転んで、空を見上げる。
雲が流れる。
形が変わる。
時間が、ただ過ぎていく。
「何してるの?」
澪の声がする。
「何もしてない」
「贅沢だね」
隣に座る。
二人で、何もせずに空を見る。
それも、体験のひとつだと知る。
あるとき、美術館に行った。
本で見たことのある絵が、目の前にある。
色が、思っていたより厚い。
筆の跡が残っている。
音楽は時間の中で消える。
本はページを閉じれば終わる。
けれど絵は、そこにずっとある。
「なんで描いたんだろう」
小さくつぶやく。
隣にいた見知らぬ女性が言う。
「描きたかったからじゃない?」
それだけ。
理由は、そんなものかもしれない。
帰り道、スケッチブックを買った。
絵は上手くない。
線は震え、比率は崩れる。
けれど、自分の目で見た公園の木を、紙の上に写す。
下手でも、そこに残る。
世界に触れた証のように。
食べ物も、少しずつ広げた。
辛いもの。
甘すぎるもの。
匂いが強いもの。
失敗もある。
二度と頼まないと決めた料理もある。
けれど、嫌いと決めるのも、ひとつの選択だ。
冬が近づくころ、雪が降った。
施設では映像でしか見なかった白が、空から静かに落ちてくる。
手のひらに乗せる。
すぐに溶ける。
冷たい。
それだけなのに、なぜか笑ってしまう。
書店の前の道も白くなり、客足は減った。
三人で店内に立ち、窓の外を見る。
「静かね」
店長が言う。
「音が吸われてる感じ」
由紀が答える。
陽はうなずく。
本のページをめくる音だけが響く。




