表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
The story’s (あるバスは決まりなく色んな街、色んな街に進いていて、 バスの窓から色んな場所色んな物語見て語る話)  作者: San


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

53/124

The story’s 選択 3

店長と由紀が親子になってからも、書店の日常は大きくは変わらなかった。


朝、シャッターを上げる音。

本の匂い。

レジの小さな電子音。


けれど、陽の中では、少しだけ何かが変わっていた。


「家族」という形を、間近で見たからかもしれない。


焦りではなく、ただ静かな興味のようなものが芽生えた。


——この世界には、まだ知らないものがいくつあるのだろう。


まず、本を読む時間が増えた。


仕事の合間に、休憩中に、閉店後に。


物語の中で、誰かが遠くへ旅をする。

誰かが裏切られ、許し、また笑う。

誰かが海を渡り、山を越え、恋をする。


ページをめくるたび、知らなかった感情の名前を知る。


「懐かしい」

「誇らしい」

「やるせない」


施設では、感情は整理して教えられた。

怒りはこう扱う。悲しみはこう対処する。


けれど物語の中の感情は、もっと曖昧で、矛盾していて、説明がつかない。


それが、少し面白い。


ある日、店長が一冊の本を差し出した。


「これ、読んでみなさい」


古い装丁の小説だった。

家族がテーマらしい。


「どうしてこれを?」


「なんとなく」


読み終えたあと、感想を聞かれた。


少し考えて、答える。


「羨ましいとは、思わなかったです。でも、あたたかいとは思いました」


店長はうなずいた。


「それでいいのよ」


それでいい。


そう言われると、肩の力が抜ける。


本だけではなく、音楽も少しずつ増えていった。


ギターは、まだ上手くない。

指の皮は硬くなり、コードの移り変わりも滑らかになってきたが、完璧とはほど遠い。


ある夜、公園で弾いていると、知らない少年が近づいてきた。


「それ、なんの曲?」


「オリジナルです」


正確には、どこかで聞いたメロディを真似しながら、少し変えただけのものだ。


「へえ」


少年はベンチに座り、最後まで聞いた。


拍手はない。

ただ、「悪くないね」と言って立ち去った。


それだけなのに、胸の奥が少しだけ温かくなる。


音は、誰かに届く。


そう思うと、練習の時間が少し楽しくなった。


休日は、公園を歩くことが増えた。


特別な目的はない。


ベンチに座る人。

犬を連れて走る人。

恋人らしき二人が、同じイヤホンを分け合っている。


風に揺れる木の葉。

池の水面に落ちる光。


施設の庭は整いすぎていた。

ここは、少し雑で、少し不規則で、それがいい。


草の上に寝転んで、空を見上げる。


雲が流れる。

形が変わる。


時間が、ただ過ぎていく。


「何してるの?」


澪の声がする。


「何もしてない」


「贅沢だね」


隣に座る。


二人で、何もせずに空を見る。


それも、体験のひとつだと知る。


あるとき、美術館に行った。


本で見たことのある絵が、目の前にある。


色が、思っていたより厚い。

筆の跡が残っている。


音楽は時間の中で消える。

本はページを閉じれば終わる。


けれど絵は、そこにずっとある。


「なんで描いたんだろう」


小さくつぶやく。


隣にいた見知らぬ女性が言う。


「描きたかったからじゃない?」


それだけ。


理由は、そんなものかもしれない。


帰り道、スケッチブックを買った。


絵は上手くない。

線は震え、比率は崩れる。


けれど、自分の目で見た公園の木を、紙の上に写す。


下手でも、そこに残る。


世界に触れた証のように。


食べ物も、少しずつ広げた。


辛いもの。

甘すぎるもの。

匂いが強いもの。


失敗もある。

二度と頼まないと決めた料理もある。


けれど、嫌いと決めるのも、ひとつの選択だ。


冬が近づくころ、雪が降った。


施設では映像でしか見なかった白が、空から静かに落ちてくる。


手のひらに乗せる。

すぐに溶ける。


冷たい。


それだけなのに、なぜか笑ってしまう。


書店の前の道も白くなり、客足は減った。


三人で店内に立ち、窓の外を見る。


「静かね」


店長が言う。


「音が吸われてる感じ」


由紀が答える。


陽はうなずく。


本のページをめくる音だけが響く。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ