The story’s 選択 2
書店で働き始めて、季節が三つ巡った。
最初は、本の背表紙をそろえるだけで精一杯だった。棚の番号を覚え、返品の手続きを覚え、客の曖昧な記憶から一冊を探し当てる技術を覚えた。
その間に、街の匂いも少し変わった。春の湿った土の匂いから、夏のアスファルトの熱、秋の乾いた風へ。
店には、ずっと前から働いている女性がいる。
名札には「由紀」と書いてある。年は二十代の後半くらいだろうか。静かな人だ。声は小さく、笑うときだけ目が細くなる。
最初のころ、陽は由紀とほとんど話さなかった。
必要な業務連絡だけ。
「この棚、お願いします」
「はい」
それだけ。
けれど、毎日同じ空間で働いていると、わずかな違いに気づくようになる。
由紀は、閉店後に必ず一冊、本を棚から抜き取る。売り物ではなく、見本の古い本だ。カウンターの端に座り、静かにページをめくる。
店主――みんなが「店長」と呼ぶあの人は、その様子を遠くから見ていることが多い。
ある夜、閉店後に雨が降った。
突然の豪雨で、店の前の道が白く煙った。
「傘、ある?」
店長が尋ねる。
由紀は首を振る。
陽も持っていなかった。
店長は少し考えてから、言った。
「今日は、うちに泊まりなさい。二人とも」
二人とも、と言われたが、陽は遠慮した。集合住宅は近い。
「私は大丈夫です」
そう言うと、店長は深く追及しなかった。
由紀は少し戸惑ったあと、小さくうなずいた。
「……お願いします」
その夜のことを、翌日由紀が少しだけ話してくれた。
「店長の家、ね、本だらけだった」
それは想像できる。
「ご飯、すごく普通だったよ。味噌汁と焼き魚。なんか……安心する味」
安心。
その言葉が、耳に残る。
それから、雨の日だけでなく、遅くなった日も、由紀は店長の家に寄るようになったらしい。
陽は、閉店後の二人の会話を、遠くから聞くことが増えた。
「ちゃんと食べてるの?」
「食べてます」
「コンビニばっかりじゃないでしょうね」
「……たまに」
叱る声は厳しいが、どこかやわらかい。
ある日、店長が風邪をひいた。
いつもは背筋を伸ばしている人が、レジの裏で咳き込んでいる。
「今日は、私が閉めます」
由紀がそう言った。
手際よくシャッターを下ろし、売上をまとめ、店長を椅子に座らせる。
「病院、行きましょう」
「大げさよ」
「行きます」
その声は、普段より少し強かった。
陽は、そのやりとりを黙って見ていた。
誰かが、誰かの体調を本気で気にしている光景。
それは、施設では見たことがない種類の緊張感だった。
数日後、店長は回復した。
「由紀がうるさくてね」
そう言いながら、どこか嬉しそうだった。
夏が終わるころ、由紀の部屋の契約が切れるという話を聞いた。
更新か、引っ越しか。
「どうするの?」
店長が何気なく聞く。
「まだ、決めてなくて」
「うち、部屋余ってるわよ」
冗談のように言った。
由紀は笑った。
「またまた」
「本気よ」
沈黙が落ちた。
陽は、本棚の陰で作業をしていたが、耳は自然とそちらへ向く。
「家賃いらない。代わりに、店をもう少し手伝ってくれればいい」
軽い口調。
けれど、声の奥に何かがあった。
由紀はすぐには答えなかった。
「……考えさせてください」
それから数日、由紀は少しぼんやりしていた。
本を並べながら、手が止まることがある。
閉店後、店長と長く話す日もあった。
内容は聞こえない。ただ、声の高さが変わるのがわかる。
ある夜、陽が帰ろうとしたとき、由紀が言った。
「私、店長の家に住むことにした」
そう告げる声は、静かだった。
「そうなんですね」
「変かな」
少し笑う。
「変じゃないと思います」
それは本心だった。
引っ越しの日、陽も手伝った。
店長の家は、やはり本だらけだった。壁一面の棚。床にも積まれた箱。
空いている部屋に、由紀の少ない荷物を運び込む。
ベッドと、小さな机と、数冊の本。
「思ったより、あっさりしてる」
店長が言う。
「物、あまり持たないんです」
由紀はそう答えた。
その日から、二人は同じ家で暮らし始めた。
最初のころ、店での距離は変わらなかった。
相変わらず業務はきっちり分担され、私情を持ち込まない。
けれど、夕方になると、二人の間に微妙な空気が流れる。
「今日は何作る?」
店長が聞く。
「冷蔵庫に何がありましたっけ」
そんな会話が自然に出る。
ある日、店長がぽつりと言った。
「私ね、子どもいないのよ」
カウンターの内側、閉店後の静かな時間。
陽は返品作業をしていたが、手が止まった。
「知ってます」
由紀は答える。
「欲しかった時期もあった。でも、気づいたらこうして本に囲まれて、あっという間」
笑う。
「でもね、最近思うの。家に帰って電気がついてるって、いいものね」
由紀は何も言わなかった。
ただ、うなずいた。
それから数週間後。
店長が、少し照れたように言った。
「正式に、どう?」
「何がですか」
「私の娘になる気、ない?」
空気が止まる。
冗談の調子ではなかった。
陽は思わず顔を上げる。
由紀は、長い間黙っていた。
「戸籍とか、そういうのも整えられる。あなたが嫌じゃなければ」
店長の声は、これまで聞いたことがないくらい慎重だった。
由紀は視線を落とし、ゆっくりと息を吐く。
「……私で、いいんですか」
「あなたがいいのよ」
即答だった。
その瞬間、何かが決まったのがわかった。
涙はなかった。
抱き合うこともなかった。
ただ、由紀が小さくうなずいた。
「お願いします」
それだけ。
それから、手続きが進んだ。
書類をそろえ、役所へ行き、説明を受ける。
陽は直接関わらなかったが、話は店で聞いた。
「なんだか、不思議ね」
店長が言う。
「昨日まで他人で、今日から親子だなんて」
「昨日から、他人じゃなかった気もします」
由紀が答える。
その言葉に、店長は目を細めた。
正式に親子になった日、店はいつも通り開いた。
特別な飾りも、祝いもない。
ただ、由紀の名札が少し変わった。
苗字が、店長と同じになっていた。
それに気づいた常連客が言う。
「あら、親戚だったの?」
店長は笑う。
「ええ、まあ、そんなもの」
由紀も笑う。
その笑いは、前よりも自然だった。
陽は、その二人を少し離れた場所から見ている。
血のつながりはない。
同じ建物で育ったわけでもない。
けれど、閉店後に「おかえり」と言い合う声がある。
体調を気にする声がある。
将来の話を、同じテーブルでできる。
それを、家族と呼ぶのだと、目の前で形になっていく。
ある夜、三人で店長の家で食事をした。
味噌汁の湯気。焼き魚の匂い。本棚に囲まれた食卓。
「陽も、いつでも来なさい」
店長が言う。
「はい」
由紀が箸を置いて、こちらを見る。
「陽も、そのうち見つかるよ」
「何がですか」
「家族」
即答できなかった。
けれど、焦りはなかった。
目の前に、ひとつの形がある。
選んで、選ばれて、時間を重ねていく形。
それを見ながら、自分の歩幅で探せばいいと思えた。
店を出ると、夜風が頬を撫でる。




