The story’s 世界にじぶん(読み切り)
夜は、静かすぎた。
音がないわけじゃない。
冷蔵庫の低い唸りも、遠くの車の走る音もある。
でも、それらは全部、
自分とは無関係な世界の呼吸みたいだった。
死にたいわけじゃない。
ただ、
最初からいなかったことになれたら、
どれだけ軽いだろうと思う。
誰の人生にも影響せず、
誰の記憶にも引っかからず、
最初から空白だった場所になる。
そんな妄想を抱いたまま、
目を閉じた。
⸻
目を開けると、
部屋の天井は同じなのに、
空気が少し違った。
自分のベッドはある。
机もある。
でも、机の上の教科書に名前がない。
表紙は白いまま。
引き出しを開けても、
ノートは新品で、
使った跡がない。
ドアを開けると、
廊下には家族の写真が並んでいる。
そこに自分はいない。
最初から、
いない形で完成している。
写真は自然だった。
無理やり切り取った空白じゃない。
最初から、その人数で撮ったみたいに。
心臓はちゃんと動いているのに、
存在だけが消えている。
⸻
外に出る。
朝の光は普通にまぶしい。
信号は赤から青へ変わる。
コンビニの自動ドアは開く。
店員はレジを打ち、
誰かが笑い、
誰かがスマホを見ながら歩く。
世界は、
一秒も遅れない。
もし自分がいなくなったら
少しくらい歪むんじゃないかと、
どこかで期待していた。
でも、歪みはない。
駅のホームに立つ。
電車が来る。
人が乗る。
扉が閉まる。
自分が立っていたはずの場所も、
ただ別の誰かが立っているだけ。
穴は、すぐ埋まる。
世界は、
隙間を残さない。
⸻
学校に行く。
黒板には日付が書いてある。
クラスは騒がしい。
自分の席だった場所には、
別の生徒が座っている。
その子は普通にノートを開き、
普通に友達と話す。
「昨日さ」
笑い声。
そこに、
“もし自分がいたら”という想像は、
一切入り込めない。
誰の会話にも、
自分を示す空白はない。
いないことが、
自然すぎる。
胸の奥が、
ゆっくり冷えていく。
悲しいというより、
虚しい。
世界は、
自分を必要としなかった。
いなくても、
完璧に完成している。
⸻
放課後、屋上に上がった。
風が強い。教室の窓から逃げるように吹き込む風が、髪をかき乱す。
僕は手すりに手を置き、下を見た。
人々は普通に校庭を歩き、部活に向かう。僕がいたはずの場所に、僕はいない。
空気は軽い。
世界は、僕が存在しないことなど気にも留めず、完璧に回っている。
心の奥が、ぽっかりと空く。
「……ここにいても、いなくても同じなのか」
小さく呟く声は、誰にも届かない。
届かないことは知っている。
けれど、声を出さずにはいられなかった。
誰かに触れてもらえない世界の、孤独の温度を確かめるために。
目を閉じると、ふわりと意識が浮く。
目の前に、白く空っぽの世界が広がった。
建物も人も、光も音も、すべてはある。
でも、僕の存在だけが消えた世界。
まるで、鏡の向こう側の自分を覗き込むみたいに。
そこでは誰も僕を見ないし、誰も僕を覚えていない。
立っているだけで、世界には何の意味も生まれない。
歩いても、笑っても、叫んでも、風景は変わらない。
虚しさが、胸いっぱいに広がる。
空気は生温かく、静かすぎる。
息を吸うたびに、存在していない自分の空洞を感じる。
それでも、呼吸は止まらない。心臓も動く。
「僕は……消えられない」
そう、静かに気づく。
目が覚めると、部屋には朝の光が差し込んでいた。
冷蔵庫の低い唸りも、遠くの車の音も、全部そのまま。
手を伸ばせば、机の上のノートや、少し曲がった鉛筆に触れられる。
影も、しっかり足元に落ちている。
自分が、ここにいる――それだけで、胸がほっとする。
夢の中では、世界は完璧に僕を必要としなかった。
でも現実は、少し違う。
朝の光は僕を映し、椅子は僕の体重を受け止め、ノートには僕の文字がある。
世界は僕を忘れてはいなかった。
それでも、胸の奥には夢の残像が残っていた。
白く空っぽの、誰も僕を認めない世界の感触。
虚しさは完全には消えず、まだ少しだけざらついている。
布団の中で、手のひらをぎゅっと握る。
「生きてるんだな……」
静かに、自分の存在を確かめる。
呼吸をするたびに、確かな手応えがある。
ゆっくり起き上がり、窓の外を眺める。
電車の音、風の音、人々の声。
すべては変わらず流れているけれど、僕もまた、そこにいる。
確かに、呼吸して、存在している。
夢の虚しさを抱えながらも、今日の光は僕を包む。
「世界は回る。でも僕も回ってる」
そう、小さく呟いて、窓を開ける。
冷たい朝の風が、部屋に流れ込む。




