The story’s 市場 (読み切り)
朝はまだ白くて冷たい。
市場の通路に水をまくと、昨日の匂いが少しずつ薄まる。魚の塩気、野菜の青い香り、果物の甘さ、肉の脂。全部が混ざって、ここだけの匂いになる。
私は段ボールを開ける。みかんがぎっしり詰まっている。ひとつ持ち上げて、指で軽く押す。やわらかすぎず、硬すぎず。
「今日は、きれいだね」
誰に言うでもなく、みかんに話しかける。向かいの魚屋が氷を砕く音を立てる。金属のシャッターが次々と上がる。市場が目を覚ます音があちこちからする。
小さな女の子が、父親の手を引いて駆けていく。サンダルのかかとが石畳に軽く弾む音。パン屋からはまだ温かい香り。揚げ物屋の鉄板が熱される匂いが通路に流れる。
私は値札を書き直す。昨日より十円下げる。たった十円。でも、その十円で立ち止まる人がいることを知っている。
最初に足を止めるのは、年配の女性。毎週同じ時間に来る。黒いバッグを手に、ゆっくりと歩き、私の店の前で止まる。
「今日は甘いかい?」
「ええ、朝一番ですよ」
ひとつ皮をむいて、口に差し出す。彼女はゆっくり噛む。目を細め、口元に小さな笑み。
「……うん」
その「うん」が好きだ。買うかどうかは、その後でいい。その一瞬、彼女の朝に私のみかんが混ざった。それだけで十分だ。
通路がだんだん騒がしくなる。子どもの声。値切る声。笑い声。ため息。市場は生きている。
若い男が通り過ぎる。イヤホンをして、スマホを見ながら歩く。私の店の前で一瞬だけ視線が止まる。みかんの山を見て、また歩き出す。足は止まらない。でも、目は触れた
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市場に入ると、匂いが次々に変わる。
魚の冷たい匂い。肉の重たい匂い。果物の明るい香り。パンの焼ける甘い香り。揚げ物の香ばしい匂い。
歩きながら、私はそれぞれの匂いに名前をつけるみたいに覚えていく。ここは通い慣れた場所なのに、毎回ちょっと違う。人も、物も、空気も少しずつ変わる。
果物屋の前で立ち止まる。山積みのみかん。店の人と目が合う。
笑われる。なぜか少し安心する。
「味見どうぞ」
ひとつ口に入れる。甘い。じわっと広がる。
ここでは、知らない人とすぐに言葉を交わす。名前も知らないのに、味の感想を共有する。
その瞬間だけ、見知らぬ人と同じ空間にいることを実感する。
通路の奥から、カゴを押す音。年配の男性が野菜を丁寧に選ぶ。白菜の葉をめくる音。トマトの赤さを見比べる視線。私の目に、ほんの一瞬だけ映る。彼は気づかないかもしれない。でも、私は覚えている。
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昼が近づく。人が増えて、ざわめきが重なる。
声が交錯する。
「今日は安いよ!」
「味見どうぞ!」
「新鮮です!」
私は声を張る。声は空気に溶け、誰かの耳に引っかかる。引っかかった人が立ち止まる。私も、その人の目を見つめる。ほんの少しだけ距離が近くなる。
通り過ぎるだけの人もいる。立ち止まる人もいる。子どもを抱えた母親が、果物の山に手を伸ばす。笑い声を上げる子ども。隣の魚屋に「どれがおすすめ?」と聞く青年。みんなそれぞれの思いを抱えて歩いている。
私は通路を歩く人々を見ながら、段ボールのみかんを整える。
時々、笑顔が目に入る。時々、焦った顔が目に入る。
すべての表情が市場の風景に混ざる。
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夕方になると、光が斜めに差し込む。
みかんの山が少し減っている。全部は売れない。でも、いくつかは誰かの袋の中に入った。
あの若い男が戻ってきた。イヤホンを外して。
「さっきの、ください」
私はうなずく。十円下げた値札が役に立ったのかもしれない。でも、本当は、あの一瞬の視線だったのかもしれない。
市場は、生きている。
通り過ぎるだけの人も、立ち止まる人も、笑う人も、ため息をつく人もいる。
売る側の私は、通り過ぎる背中を何度も見る。
買う側の私は、並んだ商品を何度も見る。
見ることと、見られること。
その間に、ほんの少しの温度が生まれる。
夜、シャッターを下ろす。市場は静かになる。
でも明日もまた、人が来る。
誰かが立ち止まり、誰かが通り過ぎ、誰かが「甘い」と言う。
その繰り返しの中で、私はまた、みかんを並べる。




