The story's 老人 (読み切り)
朝は、いつも少しだけ遅れてやってくる。
若いころは、目覚ましよりも早く目が覚めたものだが、今は違う。目が覚めても、すぐには起きない。天井の染みをぼんやり見つめながら、「今日」というものが、自分に何を求めているのか考える。だが、だいたい何も求めていない。
それが、少しだけ、ほっとする。
杖をつき、ゆっくりと玄関を出る。靴ひもを結ぶのにも時間がかかる。結び終えたころには、何をしようとしていたのか忘れかけている。
まあいい。
どうせ、急ぐ用事もない。
公園までは、五分ほどの道のりだが、私にとっては小さな旅だ。途中で立ち止まり、電柱の影を見たり、アスファルトの割れ目から出ている草を見たりする。
草は、誰に褒められるでもなく、ただ生えている。
それでいいのだろう。
公園のベンチは、少し冷たい。朝露がまだ残っている。ハンカチで軽く拭き、腰を下ろす。膝が、ぎし、と鳴る。
向こうでは、若い母親が子どもを追いかけている。
「こら、待ちなさい!」
子どもは笑いながら逃げる。転びそうになっても、すぐに立ち上がる。その速さに、私はついていけない。
昔は、あんなふうに走っていたのだろうか。
思い出そうとするが、思い出せない。
思い出せないことが、増えていく。
それでも、困ることはあまりない。
隣のベンチには、毎朝同じ時間に来る老人がいる。だが、私たちはほとんど話さない。軽く会釈をするだけだ。
言葉は、少なくていい。
風が、木の葉を揺らす。
さ わ さ わ
耳の奥で、遠くの時間がほどけていく。
若者たちは、忙しそうにスマートフォンを見ながら歩いている。何かに追われているようだ。未来、というものに。
未来は、そんなに急がなくても、ちゃんと来る。
私のところにも来た。
そして、気づけば、通り過ぎていった。
昼になると、日差しが強くなる。ベンチの影が短くなる。私は、影が動くのをただ見ている。
何もしていない。
何もしていない時間が、こんなにも長いとは、若いころは思わなかった。
だが、悪くない。
何もしていないと、世界の方が勝手に動いてくれる。
犬を散歩させる人。
部活帰りの学生。
缶コーヒーを飲みながら電話をする男。
みんな、それぞれの事情を抱えているのだろう。
だが、私には関係ない。
関係ない、というのは、冷たいことではない。
ただ、手が届かない、というだけだ。
手は、もう、あまり上がらない。
夕方になると、空が色を変える。
オレンジから、薄紫へ。
ゆ っ く り
溶けるように。
子どもたちの声が、少しずつ遠ざかる。母親の呼ぶ声が、家の中へ吸い込まれていく。
私は、ただ座っている。
家に帰る理由を、考えないでもいい時間。
ここにいるだけで、今日という一日が終わる。
若いころは、「何者かにならなければ」と思っていた。
仕事で認められたい。
家族を守りたい。
失敗を取り戻したい。
あれは、なんだったのだろう。
今は、名前も、肩書きも、少しずつ剥がれている。
残ったのは、
ただの、からだ。
ただの、いき。
す う
は く
それだけだ。
夕日が沈む。
沈むのを、止めることはできない。
止めようとも、思わない。
若い人たちは、明日の予定を考えているのだろう。
私は、明日のことを考えない。
明日が来なかったとしても、それはそれでいい。
そう思うと、不思議と、胸が軽くなる。
すべては、思っていたより、大したことではなかったのかもしれない。
失敗も。
成功も。
愛も。
後悔も。
大きな石のように抱えていたものが、今は小石ほどに思える。
いや、小石ですらない。
風にまぎれて、
ふ わ
と、消える。
公園の街灯が灯る。
白い光が、地面を丸く照らす。
私は、立ち上がる。
膝が、また鳴る。
それでも、転ばない。
ゆ ら
ゆ ら
歩く。
家までの道を、何度も歩いた。
これからも、何度か歩くだろう。
だが、それも、どうでもいい。
どうでもいい、というのは、投げやりではない。
ただ、
すべては、流れていく。
抗わなくても。
握らなくても。
名付けなくても。
今日見た夕日も、
子どもの笑い声も、
私の名前も、
やがて、
う す れ て い く。




