バルニンーグ 6 完結
施設の廊下は、いつも同じ匂いがする。
柔軟剤と、古い床のワックスと、夕飯の残り香。
春になっても、夏になっても、変わらない。
僕はその匂いが嫌いではなかった。
帰る場所、というより、戻ってくる場所。
職員さんに呼ばれたのは、昼食のあとだった。
「次、決まったよ」
その言い方も、いつもと同じ。
驚きはない。
期待もない。
「今回は、お母さん一人の家」
僕はうなずいた。
荷物は多くない。
段ボールひとつ分。
増えない。増やさない。
⸻
その家は、駅から少し歩いた場所にあった。
二階建ての、古い家。
外壁は少し色あせている。
玄関を開けると、
「……いらっしゃい」
細い声。
四十代くらいの女性。
髪は後ろでまとめている。
部屋はきれいに整っていた。
でも、どこか生活の音が少ない。
テーブルは二人用。
椅子は向かい合わせ。
最初の夜、
彼女は少し焦がした味噌汁を出した。
「……ごめんね」
「大丈夫です」
本当に大丈夫だった。
焦げの匂いは、
人の匂いに近い。
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この家は、静かだった。
テレビはつけない。
音楽も流れない。
夜になると、家の軋む音だけが聞こえる。
最初の一週間、
彼女は必要なことしか聞かなかった。
「学校はどう?」
「好き嫌いある?」
「洗濯物はここに出して」
それ以上は踏み込まない。
僕も踏み込まない。
それでよかった。
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ある夜、雨が降った。
強く、長く。
僕は二階の部屋で寝ていたが、
階段を上る足音がした。
止まる。
ノックはない。
しばらくして、足音は下に戻る。
朝、
階段の手すりに、タオルがかけられていた。
「寒いと思って」
それだけ。
僕はうなずいた。
⸻
この家には、未完成の感じがあった。
洗濯物はよく溜まる。
冷蔵庫の中は偏っている。
買い物袋が床に置いたまま。
でも、僕が皿を洗うと、
彼女は少し驚く。
「ありがとう」
その言い方がぎこちない。
ある日、
僕が夕飯を作った。
特別なものじゃない。
施設でよく作っていた簡単な炒め物。
彼女は黙って食べた。
「……美味しい」
それだけ。
でも、その日の夜、
台所の明かりが少し長くついていた。
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秋になるころには、
会話が増えた。
増えたといっても、
長い話ではない。
「今日、風強かったね」
「うん」
「洗濯物飛びそうだった」
「見た」
それだけ。
でも、その“それだけ”が、
この家ではちゃんと積み重なっていた。
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ある日、
僕が帰ると、彼女は床に座っていた。
スーパーの袋がそのまま。
「……疲れた?」
聞いたのは初めてだった。
彼女は少し笑った。
「うん。ちょっとね」
その日、僕は無言で袋を片付けた。
彼女は何も言わなかった。
でも、次の日から
買い物袋はすぐ台所に置かれるようになった。
少しだけ、
この家の形が整っていく。
⸻
十八になる冬。
施設から連絡が来た。
自立支援の話。
アパート。
仕事。
手続き。
僕はうなずいた。
決まっていたことだ。
彼女に伝えると、
しばらく黙っていた。
「……そうだよね」
引き止めない。
ただ、少しだけ、視線が揺れた。
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最後の夜。
食卓は、いつも通り。
味噌汁は焦げていない。
「ちゃんと食べなさいよ」
「うん」
それだけ。
でも、食後に
彼女が言った。
「ここ、たまに帰ってきてもいいから」
初めて、少しだけ声が弱かった。
僕は考える。
今まで、
“また来てもいい?”と聞いたことはなかった。
聞く前に、出てきた。
でも今回は違う。
僕は言った。
「うん。来る」
彼女は笑った。
泣かなかった。
⸻
玄関。
靴を履く。
この家の空気は、
もう未完成ではない。
少しだけ、形になっている。
僕が出ても、崩れない。
それが分かる。
ドアを開ける前、
彼女が言った。
「……ありがとね」
「うん」
それで十分だった。
⸻
新しいアパートは、小さい。
家具は最低限。
でも、静けさは慣れている。
窓を開けると、風が入る。
今はそれでいい




