バルニンーグ 5
車が止まる前に、施設の屋根が見えた。
見慣れているはずなのに、
少しだけ遠く感じた。
門の横の植え込み。
玄関の擦れたドア。
窓に貼られた季節の飾り。
何も変わっていない。
職員さんがトランクを閉める音が、
やけに大きく響いた。
「おかえり」
玄関で言われる。
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部屋は前と同じだった。
二段ベッド。
白いカーテン。
壁の小さな傷。
僕の場所は、ちゃんと空いている。
誰かが使っていたわけじゃない。
最初から、空いていたみたいに。
荷物は少ない。
段ボールを開けると、
服と、本と、歯ブラシ。
桜の家から持ってきたものは、
何もない。
それでいい。
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夕食は、カレーだった。
大きな鍋。
大きな声。
スプーンがぶつかる音。
「どこの家だった?」
「楽しかった?」
「また戻ってくると思ってた」
みんな、軽く聞く。
僕は「普通」と答える。
普通。
その言葉は便利だ。
重さを出さない。
隣の子が、
「俺は来月、決まりそう」と言った。
僕は「よかったな」と言う。
本心かどうかは、自分でも分からない。
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夜。
消灯時間。
天井を見上げる。
施設の夜は、完全に静かにはならない。
誰かがトイレに起きる。
布団が擦れる。
遠くで小さな寝言。
それでも、安心する。
ひとりじゃない音。
でも、
桜の家の静けさを思い出す。
あの家の夜は、
音が少なすぎて、
自分の呼吸だけがあった。
ここでは、
呼吸は混ざる。
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翌朝、洗濯物を干す。
庭の隅に、小さな木がある。
種類は分からない。
花は咲かない。
僕は少しだけ、その木を見る。
誰もそこを特別には見ない。
それが、少し楽だった。
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数日が過ぎる。
生活はすぐ戻る。
学校へ行き、
帰ってきて、
宿題をして、
風呂に入り、
寝る。
職員さんは、何も深く聞かない。
「大丈夫か?」とだけ聞く。
僕はうなずく。
大丈夫、というのは、
悲しくないという意味じゃない。
動ける、という意味だ。
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ある夜、
ベッドの中で目を閉じる。
黄色いカーテンが揺れる光景が浮かぶ。
あの部屋。
あの名前。
あの青い色鉛筆。
僕は、それを思い出しても、
泣かない。
ただ、胸の奥が少しだけ、
静かになる。
あの家には、
消えない誰かがいた。
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一週間後、
新しい子が入ってきた。
小さくて、
落ち着きがない。
食事のとき、
スプーンを落とした。
音が響く。
僕は何も言わず、
拾って渡す。
「ありがとう」
小さな声。
その声は、
あの家の静けさとは違う。
でも、
どこか似ている。
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夜、窓の外を見る。
桜はない。
黄色いカーテンもない。
でも、空は同じだ。
今はここでいい。




