バルニンーグ 4
桜が咲いたあとも、その家は変わらなかった。
朝は静かで、
夜も静かだった。
ただ、庭の木だけが、
少しだけ存在を主張していた。
小さな花びらが、風で揺れる。
里母さんは、洗濯物を干すとき、
必ずその木を一度見る。
触れない。
撫でない。
ただ、見る。
その視線は、長すぎず、短すぎない。
僕は、それを何度か見て、
見ていないふりを覚えた。
⸻
僕はときどき、あの部屋に入るようになった。
最初は入口に立つだけだった。
次は、一歩入る。
その次は、窓を少しだけ開ける。
埃はほとんどない。
誰かが、時々、掃除している。
本棚の絵本は、少し古かった。
端が丸まっている。
何度も読まれた跡。
机の引き出しの中に、色鉛筆があった。
半分くらい、短くなっている。
何歳だったのかは、聞いていない。
でも、部屋の高さで分かる。
僕より、少し小さい。
裏に、小さく名前が書いてあった。
———
(僕はそれを読み、
読まなかったことにして、元に戻した。)
———
その日から、
僕はその名前を心の中で呼ばないようにした。
呼ぶと、
この家の静けさを壊してしまいそうだったから。
⸻
ある日、庭の桜の根元に、小さな石が置いてあるのに気づいた。
丸くて、白い石。
何の飾りでもない。
ただ、そこにある。
夕方、里父さんがその石の周りの雑草を抜いていた。
僕も黙って手伝った。
「ありがとう」
それだけ言われた。
その“ありがとう”は、
雑草のことじゃない気がした。
⸻
六月の雨の日。
家の中が少し暗い。
里母さんが、あの部屋のカーテンを外して洗っていた。
「湿気るとね、よくないから」
独り言みたいに言う。
僕はカーテンレールを押さえた。
二人で、黄色い布を外す。
干されたカーテンは、
風に揺れて、少し透けていた。
あの部屋は、その日だけ、
空っぽみたいに見えた。
でも、空ではなかった。
⸻
夕食のとき、
味噌汁が少ししょっぱかった。
里母さんは気づいていないふりをして、
何も言わなかった。
里父さんも、何も言わない。
僕も、何も言わない。
この家では、
“言わないこと”が、ひとつの会話だった。
⸻
ある夕食のあと、
里父さんが言った。
「来月、少し話がある」
その声は、穏やかだった。
僕はうなずいた。
驚きはない。
この家が、
永遠ではないことは知っている。
でも、胸の奥が、
ほんの少しだけ、重くなった。
その夜、
僕はあの部屋に入った。
机に手を置く。
ここに座っていた時間が、
どれくらいあったのか、想像する。
僕の時間は、まだ短い。
でも、重さは同じじゃなくてもいい。
そう思った。
⸻
別れの日は、晴れていた。
桜はもう葉だけになっている。
職員さんの車が止まる。
段ボールは一つだけ。
僕はあの部屋の前で立ち止まった。
ドアは開いている。
黄色いカーテンが揺れている。
机の上に、色鉛筆が置かれていた。
一本、短い青色が、少し転がっている。
僕はそれを、そっと元に戻した。
何も持っていかない。
代わりにはならない。
でも、
ここにいたことは、本当だ。
あの名前を、
最後まで口にしなかった。
それでいい。
⸻
玄関で靴を履く。
里母さんは、何も言わないで、
僕の袖のほこりを払った。
里父さんが、庭を見た。
「また桜、咲くからな」
僕はうなずいた。
来年、僕はいない。
でも、咲く。
それでいい。




