バルニンーグ 3
施設に戻ってから、二週間が過ぎていた。
洗濯機の回る音。
廊下を走る足音。
夜、誰かが泣く声。
どれも、懐かしいというより、元に戻っただけだった。
僕はベッドに寝転びながら、
前の家のチョコレートの包み紙を指で折っていた。
なくならないものはない。
でも、完全に消えるわけでもない。
そのとき、職員さんが言った。
「次のご家庭が決まったよ」
僕はうなずいた。
驚きはなかった。
少しだけ、深呼吸をした。
⸻
その家は、郊外の静かな住宅地にあった。
庭に、小さな木が一本立っている。
まだ若い。
支柱で支えられていた。
玄関のドアを開けると、
柔らかい石鹸の匂いがした。
「いらっしゃい」
里母さんは、ゆっくり笑った。
その笑い方は、どこか慎重だった。
里父さんは、深く一度うなずいた。
家の中は整っていた。
静かで、きれいで、
少しだけ広い。
案内された二階の部屋は、八畳あった。
机と、本棚と、ベッド。
そして、廊下の突き当たりに、
もう一つドアがあった。
閉まっていた。
「そこは……物置なの」
里母さんは、ほんの一瞬だけ視線を逸らして言った。
僕は、何も聞かなかった。
⸻
最初の夕食は、カレーだった。
三人で向かい合う。
スプーンの音が静かに響く。
「学校はどう?」
「普通です」
「そう」
それ以上、広がらない。
でも、沈黙は重くなかった。
どこか、慎重なだけだった。
食後、里父さんが庭の木に水をやっていた。
「それ、何の木ですか」
初めて、自分から聞いた。
里父さんは少し驚いた顔をして、それから答えた。
「桜だよ」
春に咲く、と。
まだ小さいから、花は少ないけどな、と。
僕は、支柱に結ばれた紐を見た。
きつくもなく、緩くもない。
⸻
日々は静かに流れた。
朝、三人で食卓を囲む。
夜、「おやすみ」と言う。
この家では、誰も大声を出さない。
喧嘩もしない。
笑い声も、小さい。
ある日、廊下を歩いていると、
あの閉まったドアが少しだけ開いていた。
中は、薄暗かった。
机。
小さなベッド。
カーテンは、淡い黄色。
本棚には、絵本が並んでいた。
僕は足を止めた。
呼ばれていない。
でも、拒まれてもいない。
「……入ってもいいよ」
後ろから声がした。
振り向くと、里母さんが立っていた。
怒っていない。
でも、少しだけ震えていた。
僕は部屋の中に入った。
埃はない。
きれいだった。
まるで、誰かが今も使っているみたいに。
「昔、子どもがいたの」
それだけ言った。
それ以上は、言わなかった。
僕も、聞かなかった。
⸻
その日から、
その部屋のドアは、時々開くようになった。
僕が通るとき、
閉められることはなかった。
ある夜、リビングの棚に写真立てを見つけた。
小さな男の子。
桜の木の前で笑っている。
今、庭にある木より、
少し大きい桜。
僕は何も言わず、
写真を元の位置に戻した。
⸻
この家では、
僕は代わりではなかった。
それは分かっていた。
でも、完全に別の存在でもなかった。
食卓で、里母さんが時々、
僕の皿によそいすぎることがある。
そのたび、
「あ、ごめんね」と少し笑う。
僕は「大丈夫です」と言う。
たぶん、
誰かにも、同じことをしていた。
⸻
冬が来た。
桜の木は葉を落とし、
細い枝だけになった。
ある日、三人で庭に立った。
「春になったら、少し咲くよ」
里父さんが言う。
僕はうなずいた。
そのとき、初めて思った。
この家の中には、
四人いる。
僕と、里父さんと、里母さんと、
もう一人。
誰も口にしないけど、
確かにいる。
でも、それは怖い存在じゃなかった。
消えないものがあると、
知っている家だった。
⸻
春。
桜は、小さな花をつけた。
たくさんではない。
でも、確かに咲いた。
里母さんが、少し泣いていた。
声は出さなかった。
僕も、隣に立っていた。
何も言わなかった。
言わなくても、
分かることがある。
この家では、
悲しみは隠されていない。
ただ、静かに置かれているだけだ。
⸻
僕は、変わらない。
相変わらず、
深く踏み込みすぎない。
期待もしすぎない。
でも、
この家の空気は、
前より少しだけ、
胸に残る。
別れが来るかどうかは、まだ分からない。
でももし来ても、
ここには、
確かに僕がいた時間がある。
そして、
消えない誰かと一緒に、
僕も少しだけ、
この家の中に置かれるのかもしれない。




