バルニンーグ 1
最初にその家に行ったのは、梅雨の終わりだった。
雨が三日間続いていて、車の窓に水が流れ続けていた。
職員さんはラジオをつけていたけれど、何を話していたのか覚えていない。
ただ、ワイパーの音だけは、今も覚えている。
その家は、少し古い木造だった。
玄関に入った瞬間、畳の匂いがした。
「いらっしゃい」
そう言った人は、声が小さかった。
怒っているわけじゃない。
優しいわけでもない。
ただ、静かな声。
その家には、子どもはいなかった。
僕は二階の六畳の部屋をもらった。
机と、本棚と、カーテンが水色だった。
その夜、三人で食卓を囲んだ。
テレビはついていなかった。
箸が皿に当たる音だけが響いていた。
「嫌いなものは?」
「特にないです」
本当は、ピーマンが苦手だった。
でも、言わなかった。
言うと、覚えられてしまうから。
覚えられると、
消えるときに、少し痛い。
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その家では、あまり会話はなかった。
朝は「おはよう」
夜は「おやすみ」
それだけ。
でも、夕方になると必ず、
里父さんが雨戸を閉めに回る。
僕の部屋も、そっと閉めてくれた。
カタン、と静かな音。
最初は、自分で閉めようとした。
でも、ある日気づいた。
僕が閉める前に、もう閉まっている。
それから、任せることにした。
その家では、
何かを「やってあげる」とは言わない。
でも、いつの間にか、やってある。
靴はいつも揃っている。
洗濯物は畳まれている。
弁当箱は洗われている。
僕は、何も言わなかった。
向こうも、何も言わなかった。
それでも、
僕は少しずつ、その家の速度に慣れていった。
⸻
秋になった。
縁側で、三人でみかんを食べた。
テレビではニュースが流れていた。
遠い国の話。
里母さんが、みかんの白い筋を丁寧に取っていた。
僕の分も。
何も言わずに。
僕はそれを見ないふりをして、
そのまま食べた。
甘かった。
そのとき初めて、
ここにいてもいいのかもしれない、と思った。
⸻
でも、冬の前に、空気が少し変わった。
夜の会話が、少し長くなった。
小さな声で、廊下越しに聞こえる。
僕は布団の中で目を閉じていた。
聞こえないふりをするのは、
得意だ。
数週間後、
職員さんが来た。
「話がある」
そう言われて、僕はうなずいた。
泣かなかった。
驚かなかった。
ただ、部屋の水色のカーテンを見た。
ああ、これも、僕のじゃなかった。
⸻
最後の夜、
三人で鍋を食べた。
いつもより、少し会話が多かった。
「寒くなってきたね」
「うん」
「風邪ひくなよ」
「はい」
それだけ。
帰る朝、
里母さんが、僕の上着のポケットに
小さな袋を入れた。
後で見たら、のど飴だった。
メモも、手紙も、なかった。
それが、その家らしかった。
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施設に戻った夜、
僕は飴を一つだけ舐めた。
甘さが消えるまで、
目を閉じていた。
⸻
第二章 声が大きい家
次の家は、春だった。
玄関を開けた瞬間、
「おおー!来たか!」という声が飛んできた。
驚いて、少し後ずさった。
その家には、小学生の男の子と、
中学生の女の子がいた。
リビングは散らかっていた。
でも、温かかった。
テレビは常についている。
笑い声が多い。
足音も多い。
最初の夕飯で、
里父さんが僕の背中を強く叩いた。
「遠慮すんな!」
咳き込んだ。
でも、誰も気づかなかった。
悪気はない。
ただ、勢いがあるだけ。
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その家では、
何かが起きるたびに、全員が口に出す。
「うれしい!」
「むかつく!」
「最悪!」
僕は、最初それに戸惑った。
感情は、しまっておくものだと思っていたから。
ある日、学校でテストが返ってきた。
あまり良くなかった。
夕飯のとき、
「どうだった?」と聞かれた。
僕は「普通」と答えた。
すると、里母さんが笑った。
「普通って何点?」
逃げられない。
正直に言った。
すると、
「じゃあ次は上げようぜ!」と里父さんが言い、
弟が「俺も低かった!」と笑った。
怒られなかった。
代わりに、翌週、
全員で机に向かうことになった。
それは、少し面倒で、
少し嬉しかった。
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夏、海に行った。
僕は泳げなかった。
波が怖かった。
でも、弟が腕を引いた。
「大丈夫だって!」
大丈夫かどうかは分からなかったけど、
笑いながら引っ張られると、
怖さが少しだけ薄れた。
その夜、
疲れてすぐ眠った。
夢を見なかった。
それは、珍しいことだった。




