The story’s 別れ(読み切り)
隣の家のドアが開く音で、朝が始まる。
鍵が回る、少し重たい音。
それから、階段を下りる足音。
私の一日は、いつもその音から始まっていた。
カーテンを少しだけ開くと、向かいの家の玄関が見える。
彼女は、今日も同じスニーカーを履いて、同じように髪をまとめて、同じようにスマホを見ながら外に出てくる。
いつもと変わらない朝。
なのに、私はそれを「数えながら」見ている。
──あと、三十日。
彼女は一ヶ月後、海外に行く。
それはもう、決まっていることだった。
仕事の都合で、長期の滞在。
戻ってくるかどうかは、分からない。
「おはよー」
門の前で、彼女が手を振る。
私は慌てて靴を履き、外に出た。
「おはよう。今日、早いね」
「うん、ちょっと準備が多くてさ。あ、パン焼きすぎたんだけど、持ってく?」
そう言って、紙袋を差し出してくる。
焼きすぎたと言いながら、ちょうどいい焼き色のパン。
いつもの彼女の「適当」。
「ありがとう。じゃあ、夜スープ作るから持ってくね」
「やった。あのスープ好き」
たったそれだけのやりとり。
いつもと変わらない。
なのに、胸の奥で、小さく何かがきしむ。
私たちは、姉妹でもないし、血もつながっていない。
ただの「隣の家の人」。
それなのに、気づいたら一番近くにいた。
仕事が終わる時間もだいたい同じで、
帰りにどちらかの家に寄って、
ご飯を分け合って、
たまに映画を見て、
疲れた日は何も喋らず、同じ部屋でだらっとして。
そういう日々が、ずっと続くものだと、どこかで思っていた。
でも、続かないものは、ちゃんと終わりが来る。
夜、彼女が私の家に来た。
ソファに並んで座り、テレビをつけたまま、画面はほとんど見ていない。
「向こう、寒いらしいんだよね」
ぽつりと、彼女が言う。
「そうなんだ」
「コート、どれ持ってくか迷っててさ」
「いっぱい持ってけばいいじゃん」
「そんなに持てないよ」
笑いながら言うけど、
その声は、ほんの少しだけ軽くなかった。
「…寂しくなるね」
私がそう言うと、彼女は少し間を置いてから、
「うん」とだけ言った。
それ以上は、何も言わなかった。
私たちは、別れの話をしない。
正確には、できない。
「向こうでさ、いい感じのカフェ見つけたら写真送るね」
「いいね。私も、こっちの猫の写真送る」
「それ、ほぼ毎日見てるやつじゃん」
「じゃあ、別の猫も探す」
そんな、どうでもいい会話ばかりしている。
本当は、言いたいことがあるのに。
「行かないで」とか、
「ずっとここにいて」とか、
そういう言葉は、
あまりにも子供っぽくて、
あまりにも重たい。
彼女の人生の前に、
私の寂しさを置くことができない。
だから私は、ただ笑って、
いつも通りに過ごす。
カレンダーの×印が、ひとつずつ増えていく。
二十日前。
十五日前。
十日前。
彼女は少しずつ荷物をまとめ始めた。
ベランダに干される服の量が減り、
玄関の靴も減っていく。
生活の気配が、少しずつ薄くなる。
それが、たまらなく怖かった。
ある夜、彼女の部屋で、床に並んで座りながら段ボールに本を詰めていた。
「これ、あげる」
そう言って、彼女は古いマグカップを私に渡した。
ヒビが入っていて、持ち手も少し欠けている。
「これ、好きだったじゃん」
「…うん」
「向こうに持ってくほどでもないし」
そう言われて、私はうなずいた。
本当は、
“向こうに持っていってほしかった”。
彼女の生活の中に、このマグカップがあるみたいに、
私も、向こうの生活の中に少しは残りたかった。
でも、そんなこと言えるはずもなくて。
帰り道、マグカップを抱えたまま、自分の家に戻った。
部屋に置いても、まだ彼女の匂いがしている気がした。
残り、七日。
一緒に過ごす時間が、
全部「最後」になっていく。
最後の一緒の買い物。
最後の夜ごはん。
最後の「またね」。
なのに、私たちは、
最後だと口にしないまま、
全部を最後にしていく。
別れの前夜、彼女が私の家に来た。
「寝れなくてさ」
そう言って、ソファに座る。
部屋の明かりはつけず、
窓から入る街灯の光だけで、
お互いの顔がぼんやり見える。
「向こうでさ、ちゃんとやれるかな」
「やれるでしょ。おねさ、なんだかんだ強いし」
「強くないよ」
少し笑って、彼女は天井を見る。
「でも…ここ離れるの、ちょっと怖い」
その言葉に、胸がきゅっと縮んだ。
私は何も言えなくて、
ただ隣に座っていた。
彼女が、ふっとこちらを見て言う。
「ね、私がいなくなっても、ちゃんとご飯食べなよ」
「それ、逆じゃない?」
「いや、あなた放っておくと適当になるから」
そう言って、彼女は私の額を軽く指でつついた。
その指の温度が、
ひどく現実的で、
ひどく優しかった。
「…また会えるよね」
私がそう言うと、
彼女は一瞬だけ、視線を逸らしてから、うなずいた。
「うん。たぶんね」
“たぶん”がついたことに、
何も言えなかった。
朝。
スーツケースが玄関に置かれている。
それだけで、もう全部分かってしまう。
「行ってくるね」
「うん。いってらっしゃい」
いつもと同じ言葉。
なのに、喉の奥が痛い。
彼女は少しだけ迷うように立ち止まって、
それから私を抱きしめた。
強くもなく、弱くもなく、
ちょうどいい力。
「ありがとう」
その一言だけ言って、
彼女は玄関を出ていった。
ドアが閉まる音が、
いつもより大きく聞こえた。
それから、隣の家は静かになった。
朝の足音も、
鍵の音も、
パンの匂いもしない。
私は、カーテンを開けて、
空になった向かいの玄関を見る。
“そろそろ別れだな”って思っていた時間は、
もう終わっていた。
残っているのは、
じわじわと過ぎた時間の重みと、
もう戻らない日常だけ。
マグカップにお湯を注ぐ。
少し欠けた縁に、唇を当てる。
苦いのに、
なぜか少し甘い。




