近所の観光地
海は、家の隣にある。
歩いて三分。サンダルで十分。寝ぐせのままでも、パジャマでも、行こうと思えばすぐ行ける。
それが、僕にとってのあの海だ。
けれど、テレビをつければ「絶景スポット」と紹介され、雑誌では「一度は訪れたい名所」として大きな写真が載る。ドローンで撮られた映像は、信じられないほど青くて、きらきらしていて、まるで海外みたいだ。
そのたびに、少しだけ不思議な気持ちになる。
――え、あそこが?
僕が昨日、コンビニ帰りにぼんやり眺めていた、あの防波堤の先の海が?
夏になると、観光客で町はふくらむ。
普段は静かな駅に人があふれ、スーツケースの音がやたらと響く。カメラを首から下げた人たちが、坂道を息を切らしながら上っていく。その先にあるのが、僕の家の隣の海だ。
みんな、少し興奮している。
「やっと来られた」
「写真で見たままだ」
「やっぱり綺麗だね」
そんな声が風に混じる。
僕はその横を、自転車で通り過ぎる。
潮の匂いは、特別じゃない。洗濯物に染みつくし、窓を開ければ勝手に入ってくる。波の音は、子守歌みたいなもので、ないと逆に落ち着かない。
でも、ある日。
夕方、観光客の女の子が、海に向かって立ち尽くしていた。
オレンジ色に染まる水平線を、ただ黙って見ている。隣にいる友達が何か話しかけても、返事をしない。
僕は、少し離れた堤防に座っていた。
いつもの景色だった。
夕焼けも、潮の引く音も、カモメの影も。
だけど、その子の横顔が、やけに真剣で。
まるで、人生で一番大事なものを見ているみたいだった。
その瞬間、胸の奥がざわついた。
ああ、そうか。
この海は、誰かにとっては「特別」なんだ。
僕にとっては、ただの背景だった。待ち合わせの目印で、散歩コースで、考えごとをする場所。
でも、あの子にとっては、何年も前から写真で見て、いつか来たいと願っていた場所かもしれない。
同じ波。
同じ空。
同じ潮の匂い。
なのに、感じ方はまるで違う。
その日、僕は初めて、観光客のふりをしてみた。
スマホを取り出して、夕焼けを撮る。しゃがんで、波打ち際を低い角度から見る。防波堤の端まで歩いて、振り返る。
――こんなに広かったっけ。
――こんなに光ってたっけ。
波は、いつもより深い音をしていた気がした。
波は、いつもより深い音をしていた気がした。
低く、ゆっくりと、胸の奥に落ちてくるような音。
僕はスマホを下ろした。
画面の中の海は、どこか薄っぺらかった。さっきまで「きれいだ」と思っていた色が、急に作り物みたいに見える。
隣で、あの女の子が小さく息を吸い込んだ。
「……やっと来られた」
今度は、はっきり聞こえた。
友達が「よかったね」と笑う。
それだけの会話なのに、僕はなぜか、聞いてはいけないものを聞いた気がして目をそらした。
やっと来られた、か。
僕は、生まれてからずっとここにいる。
「やっと」なんて思ったことは一度もない。
来るも何も、海は勝手に隣にあった。
小さいころ、砂浜で転んで泣いた。
中学生のとき、部活帰りにぼんやり座っていた。
告白して振られた夜も、ここに来た。
思い出はたくさんある。
でもそれは、「有名な海」としての記憶じゃない。
ただの、生活の延長だ。
女の子が、スマホで写真を撮る。
夕焼けを背にして、何度も角度を変えて。
その姿を見ながら、僕はふと思う。
もし、この海が有名じゃなかったら。
もし、ただのどこにでもある海だったら。
それでも、僕はここに来るだろうか。
たぶん、来る。
理由なんてない。
ただ、落ち着くから。
だけど、あの子はどうだろう。
「有名」だから来たのか。
それとも、「海」だから来たのか。
その違いは、僕には分からない。
やがて日が沈みきり、空は紫に変わる。
観光客たちは、名残惜しそうに帰り始める。
女の子も、最後にもう一度だけ海を振り返ってから、坂道を上っていった。
僕は、堤防に一人残る。
静かだ。
さっきまでのざわめきが嘘みたいに、町は元の呼吸を取り戻している。
波の音だけが、同じ調子で続いている。
僕は、靴を脱いで、少しだけ水に足を入れた。
冷たい。
でも、嫌じゃない。
その瞬間、ふと分かる。
この海は、僕にとって「特別じゃない」わけじゃない。
ただ、特別であることを、いちいち確認しないだけだ。
毎日見ているから。
いつでも行けるから。
失う想像をしていないから。
もし、ここを離れたら。
遠くの街で、忙しい日々の中で、
ふと潮の匂いを思い出したら。
そのとき初めて、僕も言うのかもしれない。
――やっと来られた。
と言う言葉を。。。
波が、足首まで来て、また引いていく。
暗い海は、観光地でも、背景でもない。
ただそこにある。
誰かにとっての一生に一度で、
誰かにとっての毎日で。
僕は靴を履き直し、家に向かって歩き出す。
振り返ると、海は何も変わらない顔で広がっている。




