Human book (読み切り) 人を貸すhuman bookの事をテーマとして書いた話
昔、居酒屋の匂いは、もう思い出せない
油と煙と、アルコールが混ざった、ありふれた匂いだったはずなのに、記憶の中では輪郭がぼやけている。
それでも、そこにいた“人”だけは、はっきり残っている
同じ時間帯で働いていた人がいた。
年齢も詳しくは知らない。話す機会も多くなかった。
ただ、その人はよく怒られていた。
注文を間違える、言われたことを忘れる
さっき聞いたはずのことを、もう一度聞き返す
最初は、単に仕事が苦手なんだと思っていた。
僕だって完璧じゃなかったし、忙しいとミスはする。
でも、その人のミスは、どこか種類が違うように見えた。
ある日、店長が言った。
「この人、ADHDなんだってさ」
その言葉を聞いたとき、正直なところ、安心した。
理由が分かった気がしたからだ。
同時に、
どこかで線を引いた自分もいたと思う。
理解した“つもり”になって、それ以上踏み込まなかった。
忙しい夜だった。
客が途切れず、厨房は騒がしくて、頭の中が常にざわついていた。
その人がまたミスをした。
たいしたことじゃない。取り返しのつくミスだった。
でも、僕は言ってしまった。
声を荒げたわけじゃない。
ただ、少し強く、少し冷たく。
言葉はもう正確には思い出せない。
ただ、その人が一瞬だけ動きを止めて、うつむいたことは覚えている。
何も言い返されなかった。
「すみません」とも言われなかった。
その沈黙が、なぜか今も引っかかっている。
それからしばらくして、その人はいなくなった。
辞めた理由も知らない。
誰も特に話題にしなかった。
時間が経てば、忘れるはずだった。
でも、なぜか忘れなかった。
ニュースでADHDという言葉を見かけるたび、
SNSで誰かの体験談を流し読みするたび、
あの厨房の光景が、少しずつ形を変えてよみがえった。
「甘えなのか」
「努力でどうにかなるのか」
「周りが我慢すればいいのか」
自分の中にある疑問は、はっきりしないまま積もっていった。
誰かに聞くほどの勇気もなく、
調べるほどの熱意もなく、
ただ、引っかかりとして残り続けた。
そんなある日、図書館で奇妙な催しを知った。
「ヒューマンライブラリー」と書かれたポスターが目に入った。
最初はよく分からなかった。
“人を貸す”……?本の代わりに、人が座っている写真。
説明を見るとこうだった。
この図書館では、本の代わりに、社会的偏見や差別を受けている人たちを「貸し出す」。
利用者はその人と30分ほど対話できる。
司書役の人が時間を管理し、会話の場を安全に保つ。
普段は聞きにくいことも、この空間なら質問できる、と書いてあった。
正直、興味本位だった。
でも、どこかで「答えがあるかもしれない」と思った。
当日、静かな部屋で椅子に座った。
向かいの席にいる人は、落ち着きなく足を揺らしていた。
視線が定まらず、指先が絶えず動いている。
それだけで、胸の奥が少しざわついた。
最初は、慎重に質問した。
仕事のこと、子どもの頃のこと。
その人は、言葉を選びながら、でも誤魔化さずに答えた。
話を聞くうちに、気づいた。
この人は、自分のことを説明するのに慣れている。
同時に、説明し続けることに、疲れてもいる。
時間が進むにつれて、僕の中の疑問が、形を持ち始めた。
逃げられない問いになっていく。
だから、聞いた。
「正直に聞いてもいいですか。
周りから、どう扱われてきましたか」
その人は、少し間を置いた。
そして、静かに言った。
「理解される前に、判断されることが多かったですね」
その一言で、あの居酒屋の夜が、急にはっきりした。
「説明する前に怒られる。
説明しても、“言い訳”って言われる。
だから、だんだん黙るようになるんです」
責める口調じゃなかった。
ただ、事実を並べているだけだった。
三十分は、驚くほど短かった。
司書の合図で、会話は終わった。
部屋を出るとき、僕は思った。
あの居酒屋の人も、
説明する時間を与えられないまま、
黙るしかなかったんじゃないか、と。
もし、あのときの僕が、
叱る側ではなく、聞く側だったら。
あの人の沈黙は、違う形になっていただろうか。




