The story's 名前のない関係(読み切り)二人のまだ名前のない関係を書いた話
その人は、いつも駅の同じベンチに座っていた。
朝でもなく、夜でもない。
人が一番行き交う時間帯に、
ただ、そこに“いる”。
私は、その横を通るたびに、
なぜか歩幅を緩めてしまう。
声をかけたことはない。
目も合わせたことがない。
それなのに、
いない日は、少しだけ落ち着かなくなる。
理由は分からない。
ただ、
あのベンチにあの人がいるという事実が、
私の一日の一部になっていた。
ある日、電車が遅れた。
人の流れが滞り、
私の足も自然と止まった。
ベンチには、いつものようにその人がいた。
俯いたまま、スマートフォンも見ず、
ただ、流れる人波を眺めている。
なぜか、その日は目が合った。
ほんの一瞬。
相手も、少し驚いた顔をした。
すぐに視線は外れた。
それだけの出来事なのに、
胸の奥で、小さな波が立った。
それから、
私はその人の存在を“意識する”ようになった。
今日はいるだろうか。
雨の日も、風の日も、
あのベンチに座っているだろうか。
偶然を装った確認。
相手がいない日は、
なぜか駅が広く感じた。
声をかけたのは、
本当に些細なきっかけだった。
ベンチの近くに、落とし物があった。
黒い手袋。
私は拾い上げて、
その人の横に立った。
「……これ、落ちてました」
相手は、少し間を置いてから顔を上げた。
「あ、ありがとうございます」
それだけの会話。
それだけなのに、
私はなぜか、すぐに立ち去れなかった。
相手も、何か言いかけて、
結局、何も言わなかった。
沈黙が、妙に長く感じた。
気まずいはずなのに、
嫌じゃなかった。
次の日から、
私たちは、ほんの一言だけ言葉を交わすようになった。
「今日も遅れてますね」
「ですね」
それ以上、踏み込まない。
名前も知らない。
年齢も知らない。
仕事も、住んでいる場所も知らない。
なのに、
知らないままの距離が、
なぜか心地よかった。
ある夕方、
私はいつものベンチの前で立ち止まった。
「……今日は、寒いですね」
そう言うと、相手は少しだけ笑った。
「前は、こんなに寒くなかったですよね」
季節の話。
中身のない言葉。
それでも、
私たちは確かに“同じ時間”を共有していた。
この人は、友達ではない。
恋人でもない。
家族でもない。
連絡先も知らない。
約束もしない。
会えなくなっても、
文句を言う権利もない。
それなのに、
この人と話す数分間が、
私の一日を、少しだけ変えていた。
ある日、
その人はベンチにいなかった。
次の日も、いなかった。
その次の日も。
私は、ベンチの前で立ち止まる癖だけが、
消えずに残った。
もう会えないのかもしれない。
理由も知らないまま。
それでも、
私は駅を通るたびに、
無意識にあの場所を見る。
そして、ある雨の日。
濡れたベンチに、その人は戻っていた。
何も言わずに座っている。
私は、いつもの距離で立ち止まった。
「……お久しぶりです」
「……お久しぶりです」
それだけ。
理由も聞かない。
どこへ行っていたのかも聞かない。
聞かなくても、
また“そこにいる”という事実だけで、
なぜか十分だった。
私たちは、
名前のない関係のまま、
また同じ場所に立つ。




