The story's 最後の晩餐(読み切り)死ぬ前の最後の晩餐を食べる話
夜の底を這うような風が、湿った路地裏を吹き抜けていた。
男はふらつきながら、壁に手をついた。
自分の腹に深く突き刺さったナイフの重みを、はっきりと感じている。
刃はまだ抜けていない。
動くたびに、内側で何かがずるりとずれる感覚があった。
コートの内側は、もうとっくに温かさを失っている。
血は流れきったのか、それとも寒さで感覚が鈍っているだけなのか、よく分からなかった。
――刺されたんだ。
俺は、今まさに死にかけている。
そう分かっているのに、恐怖は不思議と湧いてこなかった、生きたい意力はもう無く
ただ、身体の芯からじわじわと寒さが広がっていく。
視界の端が暗くにじみ、遠くの街灯が二重にぶれて見える。
息をするたび、胸の奥でひゅう、と空気が抜けるような音がした。
元はと言えば、くだらない口論だった。
金でも恨みでもない。
居酒屋で隣に座った男の肩がぶつかった。
それだけだ。
「何見てんだよ」
その一言で、全部が終わった。
次の瞬間、腹に鈍い衝撃。
振り返ったときには、もう誰もいなかった。
男はよろめきながら、路地の奥へ歩いた。
どこか温かい場所に行きたかった。
最後に、人間らしいことをしたかった。
そのとき、視界の端に、煤けた赤提灯が揺れているのが見えた。
「めし」
それだけ書かれた、古びた看板。
引き戸の隙間から、オレンジ色の灯りが漏れている。
引き戸を開けると、油と醤油の匂いが、ふわりと身体を包んだ。
店内は、誰一人いない。
カウンターが十席ほど。
奥に小さな座敷。
天井から下がる裸電球が、やけに暖かい色をしている。
――居酒屋、か。
足元がぐらりと揺れた。
ナイフが腹の奥で当たり、思わず声が漏れる。
「……っ」
男は、カウンターの端にしがみつくように腰を下ろした。
「……誰か、いるか……」
返事はない。
しばらくして、カウンターの奥の引き戸が、音もなく開いた。
出てきたのは、若い女だった。
黒い髪を後ろで一つに結び、白い割烹着を着ている。
男の腹に刺さったナイフも、血に染まったコートも、
まるで視界に入っていないようだった。
無言で、水の入ったコップを置く。
「……食えるものを」
女は何も言わず、ただ一度だけ小さく頷いた。
最初に出てきたのは、湯気の立つ肉じゃがだった。
甘い醤油の匂いが、鼻をくすぐる。
箸を持つ手が震える。
ナイフが刺さったままなのが、はっきりと見える。
それでも、口に運ぶ。
じゃがいもが、ほろりと崩れた。
――昔、アパートで一人暮らししていた頃、
安いスーパーの材料で、よくこれを作った。
うまくもない、まずくもない味。
ただ、腹を満たすための料理。
「ちゃんとしたもん、食べなよ」
そう言ってくれた女がいた。
結局、その言葉を聞かなくなったのは、自分の方だった。
次に出てきたのは、卵焼きと、小さな大根の漬物。
甘い卵焼きを噛むと、喉の奥がきゅっと縮んだ。
――中学の頃、弁当に入っていた卵焼きだ。
母親は無口な人だった。
褒めもしなかったし、叱りもしなかった。
ただ、毎朝これを焼いてくれた。
三品目は、豚の生姜焼き。
脂の匂いが、強く鼻に刺さる。
噛むたび、視界が一段ずつ暗くなる。
寒さが、肩から背中へと広がっていく。
――工事現場で働いていた頃、
昼休みにみんなで食った弁当のおかずも、こんな味だった。
「今日は当たりだな」
誰かがそう言って笑っていた。
誰の顔だったか、もう思い出せない。
最後に置かれたのは、小さな茶碗の白飯と、豆腐の味噌汁。
女は、相変わらず何も言わない。
男は、ゆっくりと箸を伸ばした。
一口、米を噛む。
……うまい。
ただ、うまかった。
噛むたびに、米粒がばらけて、口の中でほどけていく。
塩気も、甘みも、主張しすぎない。
ただそこにあって、身体の奥へ落ちていく。
男は、もう一口、箸を動かした。
指先の感覚が少し鈍い。
箸の重さが、いつもより遠く感じる。
それでも、不思議と手は止まらなかった。
味噌汁をすする。
熱さは、ほとんど感じない。
それでも、喉を通った瞬間、胸の奥がわずかに緩んだ。
――ああ、あったかい。
そう思った気がした。
腹の中で、食い物が静かに落ち着いていく。
ナイフの重みも、痛みも、どこか遠くなった。
男は、息をひとつ吐く。
視界の端で、裸電球がゆっくり揺れている。
揺れているのか、自分が揺れているのか、もう分からない。
「……」
何か言おうとして、言葉にならなかった。
女の気配は、カウンターの向こうにある。
近くもない、遠くもない。
ちょうどいい距離。
男は、もう一口、白飯を口に運ぶ。
噛む。
噛んでいるうちに、時間の感覚が薄れていく。
何秒噛んだのか、もう分からない。
――最後に、ちゃんと飯を食ったのは、いつだったか。
思い出そうとしたが、途中でやめた。
今は、それでいい気がした。
味噌汁を持ち上げようとして、手が少し震える。
椀の縁が、歯に軽く当たる。
こくり、と一口。
豆腐の柔らかさが、舌の上で崩れた。
その瞬間、胸の奥で、何かが静かに切れた。
寒さが、急に遠のく。
代わりに、重たい眠気が、ゆっくりと降りてくる。
男は、もう一度、箸を取ろうとした。
指が、空を掴む。
箸が、音を立てて転がった。
「あ……」
声にならない声が、喉で消えた。
身体が、前に傾く。
支えようとしたが、力が入らない。
支えようとしたが、力が入らない。
男の身体は、そのまま前に崩れ、
額がカウンターに触れた。
音は、ほとんどしなかった。
呼吸が、ひとつ。
それが、最後だった。
胸は動かず、
指も、もう震えない。
店の中には、
箸が落ちたままの音だけが、まだ残っているようだった。
女は、何も言わない。
しばらくして、
男が二度と動かないことだけが、静かに確かになった。
女は、カウンターの内側に立ち、
だった静かに、男の前に残された皿を下げ始めていた…




