The story’s 夕顔 5
彼女は、しばらく動かなかった。
ペンは机の上に置いたまま。
ノートは開いたまま。
書いたばかりの一文。
――何かが足りない気がした。
それを、ただ見ている。
「……」
静かだった。
冷蔵庫の音。
風の音。
それだけ。
横を見る。
いない。
「……」
何も言わない。
そのまま、視線を戻す。
そして、ゆっくりとペンを持つ。
少しだけ、迷う。
けれど。
書く。
――さらに、少し時間が経って。
インクが、また紙に染みる。
――その子は、いつも通り過ごす。
――少し歩ける。
――少し読める。
――少し眠れる。
――全部、前よりいい。
彼女の手は、落ち着いている。
――だから。
――もう、何も見えないはずだった。
ペンが止まる。
ほんの一瞬。
それから、続ける。
――その日も。
――部屋は静かだった。
――変わらない。
――何も起きない。
「……」
彼女は、少しだけ横を見る。
いない。
そのまま、書く。
――本を閉じる。
――窓を見る。
――光が入る。
――眩しい。
――普通だ。
ペンの音が、一定に続く。
――「……」
そこで、彼女の手が止まる。
ほんの少し。
そして。
また、動く。
――その時。
インクが、少し強くなる。
――「また、つまらなそうな顔してる」
彼女の手が、止まる。
完全に。
「……」
ゆっくりと、顔を上げる。
横を見る。
男が、いる。
前と同じ場所。
同じ姿勢。
同じ顔。
「……」
何も言わない。
数秒。
ただ、見ている。
男が軽く肩をすくめる。
「そんな顔する?」
「……」
彼女は、少しだけ遅れて言う。
「……遅い」
男が少し笑う。




