The story’s 夕顔 4
その一文のあと。
彼女のペンは、少しだけ止まっていた。
――ただ、時間だけが過ぎる。
その続きが、すぐには出てこない。
「……」
横を見る。
男は、いる。
いつも通り。
壁にもたれて、何も変わらない顔で。
「……何」
「……別に」
短く返す。
それ以上は、言わない。
彼女はノートに視線を戻す。
そして、書く。
――さらに、次の日。
ペンの音が、やけに小さく響く。
――その子は、いつもより早く目を覚ます。
――体は、前より軽い。
――呼吸も、少し楽だ。
――起き上がるのも、昨日より簡単だった。
彼女は、淡々と書く。
感情を乗せないように。
――「……また、普通だ」
――小さく、そう言う。
ペンは止まらない。
――部屋を見る。
――隅を見る。
――何もない。
――もう、何も現れない。
彼女は、そこまで書いて。
ほんの少しだけ、視線を横に動かす。
「……」
男は――
いない。
彼女の手が、止まる。
ペン先が紙に触れたまま、動かない。
「……」
何も言わない。
もう一度、横を見る。
いない。
さっきまでいた場所。
壁のあたり。
空白。
「……」
ゆっくりと、瞬きをする。
もう一度見る。
やっぱり、いない。
「……」
呼ばない。
名前もないから、呼べない。
ただ、視線を戻す。
ノートへ。
そして。
何事もなかったように、書く。
――その子は、部屋を見渡す。
――いつもと同じ。
――何も変わらない。
ペンの動きは、少しだけ遅い。
――少しだけ、静かすぎる。
彼女の呼吸が、わずかに深くなる。
けれど、止めない。
――昨日まであったものが、ない。
――それだけ。
――それだけのはず。
彼女は、一瞬だけ止まる。
けれど、すぐに書く。
――体が良くなったから。
――だから、見えなくなった。
――そういうものだと、思う。
「……」
小さく、息を吐く。
誰もいない横に、視線を向ける。
返事はない。
当然だ。
「……」
何も言わない。
そのまま、書く。
――その子は、少しだけ考える。
――昨日のこと。
――影のこと。
――会話のこと。
――思い出そうとする。
ペンが、わずかに止まる。
――けれど。
――うまく、思い出せない。
彼女の指が、ほんの少しだけ強くなる。
――言葉が、曖昧になる。
――声も、表情も。
――ぼやけていく。
彼女は、そのまま書く。
止めない。
――夢みたいに。
――輪郭がなくなっていく。
「……」
静かな部屋。
冷蔵庫の音だけ。
さっきより、少し大きい気がする。
――その子は、窓のほうを見る。
――光が入っている。
――外は、昨日と同じ。
――普通のまま。
ペンの音が、一定になる。
「……」
それから、静かに続きを書く。
――その子は、椅子に座る。
――本を開く。
――文字を追う。
――少しずつ。
――ゆっくりと。
そして。
彼女の手が、ほんの少しだけ止まる。
ほんの、一瞬。
それから。
――ほんの少しだけ。
――何かが足りない気がした。
書き終える。
ペンを置く。
部屋は、静かだった。
最初と同じ。
何も変わらないはずの静けさ。




