The story’s 夕顔 3
――次の日。
書きながら、ほんの少しだけ視線を横に動かす。
男は、いる。
変わらず、そこに。
「……」
何も言わず、またノートに戻る。
――その日は、少し体調がよかった。
――息も、昨日より楽だった。
――熱も、少しだけ下がっている。
彼女の手は、静かに動く。
――だから。
――その子は、少しだけ眠れた。
――深く。
――久しぶりに。
「……」
ペンが止まる。
ほんの一瞬。
それからまた動く。
――そして、目が覚めたとき。
――部屋は、いつも通りだった。
――静かで。
――白くて。
――何も変わらない。
彼女は、そこで少しだけ迷う。
「……ここ」
男が小さく言う。
「出さない?」
「……」
彼女は考える。
長くは考えない。
そして、書く。
――影は、いなかった。
その一文を書いた瞬間。
彼女の手が、ほんのわずかに止まる。
部屋が、少しだけ静かになる。
冷蔵庫の音が、遠く感じる。
「……」
彼女は、何も言わない。
ただ、その一文を見ている。
男が、静かに言う。
「いなくなったね」
「……うん」
短く答える。
それ以上は、言わない。
彼女は続きを書く。
――その子は、少しだけ周りを見る。
――部屋の隅。
――いつも影があった場所。
――何もない。
ペンの動きが、少しだけ遅くなる。
――「……いない」
――小さく、そう呟く。
彼女は、その言葉を書いたあと。
少しだけ視線を横に向ける。
男は、そこにいる。
「……」
「なに」
「……別に」
すぐに視線を戻す。
――その子は、少しだけ考える。
――楽になったから。
――だから、見えなくなった。
――そう思う。
彼女は書きながら、小さく呟く。
「……正しい」
男が答える。
「うん」
「……そういう話」
「うん」
肯定は、短い。
彼女はまた書く。
――それは、いいことのはずだった。
――体調が良くなって。
――変なものも見えなくなって。
――普通に戻っていく。
ペンが、少しだけ強くなる。
――けれど。
その一行で、止まる。
「……」
男は何も言わない。
彼女も、すぐには書かない。
しばらくして。
「……続ける」
小さく呟く。
そして、書く。
――けれど。
――その子は、少しだけ。
――ほんの少しだけ。
――部屋が静かすぎると感じた。
空気が、少し変わる。
男はそれを見て、わずかに目を細める。
彼女は続ける。
――前までは。
――苦しいときだけ現れて。
――短く話して。
――それだけだったはずなのに。
――いなくなった今。
――その短い時間が、思ったより長かったことに気づく。
ペンが止まる。
彼女は、その文を見つめる。
「……」
「……」
沈黙。
冷蔵庫の音だけ。
風もない。
「……依存」
彼女が小さく言う。
男が答える。
「うん」
「……少しだけ」
「うん」
否定しない。
彼女はまた書く。
――その子は、ベッドから起き上がる。
――少しふらつくけれど、歩ける。
――窓の近くまで行く。
――カーテンを少しだけ開ける。
――光が入る。
――眩しい。
彼女のペンは、静かに進む。
――「……普通だ」
――そう、呟く。
――外は、何も変わっていない。
――人も、空も、音も。
――全部、普通のまま。
彼女はそこで止まる。
少しだけ、考える。
そして。
――「……」
言葉を書かないまま、空白を作る。
男がそれを見て、少しだけ笑う。
「そこ、書かないんだ」
「……いい」
「なんで」
「……言わない方がいい」
男は軽く頷く。
「そっか」
彼女は、またペンを動かす。
――その子は、しばらく窓を見ている。
――何も起きない。
――何も現れない。
――ただ、時間だけが過ぎる。
ゆっくりと。
静かに。




