The story’s 夕顔 2
彼女はペンを持ったまま、少しだけ考える。
ノートの白い余白が広がっている。
「……死神、か」
小さく呟く。
横にいる男が、少しだけ首をかしげる。
「急にファンタジーだね」
「……違う」
「ん?」
「現実に寄せる」
彼女は短く言って、書き始める。
――その子は、病気だった。
――詳しい名前はわからない。ただ、少しずつ体が弱っていく。
――治るかどうかも、はっきりしない。
ペンが止まらない。
さっきよりも、少しだけ速い。
――最初に見えたのは、影だった。
――部屋の隅。光が届かない場所に、黒い形がある。
「……影」
男が呟く。
「ベタじゃない?」
「……いい」
「そっか」
彼はそれ以上言わない。
彼女は続ける。
――その子は、最初、それを無視した。
――疲れているだけだと思った。
――けれど。
彼女の手が、少しだけ止まる。
「……喋る」
「うん」
「いつから」
男は少し考える。
「最初は喋らない方がよくない?」
「……なんで」
「怖さがあるから」
彼女は少しだけ黙る。
それから、小さく頷く。
――影は、何も言わない。
――ただ、そこにいる。
――日が経つごとに、その輪郭がはっきりしていく。
――人の形に、近づいていく。
彼女はそこで、ふと横を見る。
男はそこにいる。
変わらず。
「……似てるな」
「また?」
「……最初は、曖昧」
「だね」
彼は静かに笑う。
彼女はまた書く。
――その子は、だんだん気づく。
――それが見える日は、体調が悪い日だと。
――熱が高い日。
――息が苦しい日。
――眠れない夜。
――そういう時だけ、影は濃くなる。
ペンが少しだけ強くなる。
紙にインクがにじむ。
男が小さく言う。
「それ、もう気づいてるね」
「……うん」
「自分が弱ってるときにしか見えないって」
彼女は答えない。
ただ、書く。
――ある日。
――影が、声を持つ。
ペンが止まる。
「……何て言う」
男が少しだけ楽しそうに聞く。
彼女は少し考える。
長くは考えない。
「……普通でいい」
「普通?」
「……うん」
そして、書く。
――「また、つまらなそうな顔してる」
男が吹き出す。
「それ、俺じゃん」
「……いい」
「そのまま使うんだ」
「……楽だから」
男は笑う。
彼女は少しだけペンを動かす手を緩める。
――その子は驚かない。
――ただ、影を見る。
――「……誰」
――そう、静かに聞く。
彼女はそこで少し止まる。
「……ここ」
「ん?」
「名前、出す?」
男は肩をすくめる。
「死神って言わせる?」
「……まだ」
「じゃあ、ぼかす?」
彼女は小さく頷く。
――「……何」
――その子はそう聞く。
――影は少しだけ考えてから言う。
――「たぶん、君がいなくなる側のもの」
彼女の手が、わずかに止まる。
「……曖昧」
「いいね」
男は静かに言う。
「はっきり“死神”って言わない方が、それっぽい」
彼女は何も言わない。
けれど、少しだけ書くスピードが上がる。
――その日から。
――その子は、その影と話すようになる。
――毎日ではない。
――体調が悪い日だけ。
――つまり、少しずつ。
――その頻度は増えていく。
彼女はペンを止める。
「……仲良くなる」
「うん」
「どうやって」
男は少し考える。
「最初は、距離あるままでいいんじゃない?」
「……」
「で、ちょっとずつ、どうでもいい話するようになる」
彼女はそれを聞いて、少しだけ頷く。
――最初は、会話は短い。
――「今日はしんどい」
――「そうだね」
――それだけ。
――けれど。
――日が経つにつれて。
彼女の手が、少しだけ柔らかく動く。
――「……外、どうなってる」
――「普通だよ」
――「……そう」
――「見たい?」
――「……別に」
――そんな、どうでもいい会話が増えていく。
男が静かに言う。
「いいね」
彼女は何も答えない。
――その子は、気づいていない。
――この存在が、何なのか。
――ただ。
彼女は少しだけ、言葉を選ぶ。
そして書く。
――ただ、その影がいるときだけ。
――少しだけ、怖くないと思える。
ペンが止まる。
部屋が静かになる。
彼女はその一文を見つめる。
「……似てる」
小さく呟く。
男が少し笑う。
「でしょ」
「……」
彼女は少しだけ黙る。
それから、また書く。
――その子は、少しずつ。
――その影を待つようになる。
男が、ゆっくりと口を開く。
「それ、危ないね」
「……何が」
「依存し始めてる」
彼女はペンを止める。
「……」
「現実が弱くなると、そっちが強くなる」
彼女はしばらく黙る。
冷蔵庫の音が、やけに大きく聞こえる。
「……でも」
小さく言う。
「……そうなるだろ」
男は少しだけ目を細める。
「うん」
否定しない。
彼女はまた書く。
――そして、ある日。
――その子は、聞く。
ペンがゆっくり動く。
――「……あなたは、いつまでいるの」
部屋の空気が、少しだけ変わる。
男は何も言わない。
彼女も、止まらない。
――影は、少しだけ沈黙する。
――それから、答える。
彼女の手が、ほんの少しだけ止まる。
そして。
ゆっくりと、書く。
――「君が元気になるまで」
その一文を書いた瞬間。
彼女の指先が、わずかに止まる。
部屋は静かだった。
風も止まっている。
「……」
彼女は何も言わない。
ただ、ノートを見る。
その言葉を。
横にいる男も、何も言わない。
ただ、そこにある言葉だけが、少しだけ重く残っていた。
やがて彼女は、ゆっくりとペンを動かす。




