The story’s 夕顔 1
静かな部屋だった。
音といえば、古い冷蔵庫が時折鳴らす低い唸りと、カーテンの隙間から入り込む風が紙をわずかに揺らす音だけ。時計は置いていない。時間というものに意味を感じなくなってから、彼女はそれを捨てた。
机の上にはノートが何冊も積み上がっている。すべて、途中で終わっている物語だった。
主人公の女性――名前はまだ決められていない――は、ペンを持ったまま止まっていた。
書けない。
頭の中には言葉がある。展開もある。けれど、それを紙に落とそうとすると、急に輪郭がぼやける。まるで霧の中に沈んでいくように。
「……また、だめか」
声は小さい。部屋に吸い込まれていく。
彼女はペンを置き、背もたれに体を預けた。視線は天井へ向く。
白い。何もない。
その何もない空間を見ていると、自分も同じように空っぽになっていく気がした。
――その時だった。
「それ、つまらないからじゃない?」
声がした。
はっきりと、すぐ近くから。
彼女はゆっくりと目を瞬かせる。
そして、横を見た。
そこに、男が立っていた。
年齢は二十代後半くらいだろうか。ラフな服装で、壁にもたれかかるようにしてこちらを見ている。見覚えはない。
「……」
彼女はしばらく黙って観察した。
輪郭。影。呼吸のリズム。すべて、妙に自然だ。
けれど。
「お前、幻覚だろ」
あっさりと言った。
男は一瞬だけ目を丸くし、それから小さく笑った。
「ひどいな。もうちょっと驚いてくれてもいいんじゃない?」
「驚く理由がない。ここに人がいるはずない」
「確かに」
男はあっさりと頷く。
「じゃあ、俺は何?」
「脳の誤作動」
即答だった。
男は苦笑する。
「夢がないな」
彼女は椅子から立ち上がることもなく、視線だけを向け続ける。
「で、なんで出てきた」
「さあ。君が呼んだんじゃない?」
「呼んでない」
「でも、退屈してたでしょ」
その言葉に、彼女の視線がわずかに揺れた。
図星だった。
「……退屈はしてない」
「じゃあ、何してたの」
「何も…」
「それを退屈って言うんだよ」
男は肩をすくめる。
彼女は少しだけ黙った。
確かに、何もしていなかった。書けず、考えられず、ただ時間が過ぎるのを見ていただけ。
「……消えろ」
小さく言う。
男は首をかしげた。
「どうやって?」
「知らない。幻覚なんだろう、勝手に消えて」
「冷たいなあ」
「……」
彼女は視線を逸らし、机のノートに戻す。
もう一度ペンを持つ。
書く。
――書けない。
「ほら、やっぱり」
男の声がする。
「うるさい」
「集中できてない…」
「俺のせい?」
「そうだ」
男は少し考えたあと、机の反対側へ回った。
「じゃあ、手伝ってあげる」
「いらない」
「まあまあ」
彼はノートを覗き込む。
「主人公、また孤独系?」
「……別にいいだろ」
「いいけどさ、君と同じじゃない?」
彼女の手が止まる。
「……だから何」
「いや、似すぎるとさ、逃げ場なくなるよ」
「意味わからない」
「自分のことを書いてるのに、現実でも同じ状態だと、どっちも詰まるってこと」
彼女はゆっくりと顔を上げた。
「……お前、幻覚のくせに、よく喋るな」
「ありがとう」
「褒めてない」
男は笑う。
その笑い方が、妙に自然だった。
「ねえ、主人公さ」
「誰かに会わせたら?」
「?」
「物語の中でいいから。話す相手作るの」
「いらない」
「なんで」
「一人でいい」
「ほんとに?」
その問いは、少しだけ静かだった。
彼女は答えない。
男は続ける。
「君さ、ずっと一人じゃん」
「……」
「それで大丈夫なら、俺出てこないと思うよ」
彼女の指先が、わずかに震えた。
「……お前は、ただの幻覚だ」
「うん」
「意味なんてない」
「うん」
「だから、消えろ」
男はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと言う。
「じゃあさ」
「……何」
「俺が消えたら、また何もなくなるよ」
その言葉は、部屋の静けさよりも重かった。
彼女は何も言えなかった。
冷蔵庫の音だけが鳴っている。
外の風が、少し強くなる。
「……別にいい」
ようやく出た言葉は、小さかった。
「慣れてる」
男は彼女を見つめる。
少しだけ、優しい目で。
「そっか」
短く答える。
その「そっか」は、否定でも肯定でもなかった。
ただ、受け入れるような響きだった。
彼女はその響きに、わずかに違和感を覚える。
――幻覚のくせに。
感情があるみたいだ。
「……名前は」
ふと、口から出た。
男は少し驚いた顔をする。
「俺の?」
「他に誰がいる」
「そうだね」
彼は少し考えてから言う。
「じゃあ、君がつけてよ」
「面倒」
「小説書いてるくせに?」
「それとこれとは別」
男は笑う。
「じゃあ、適当でいいよ」
彼女はしばらく考えた。
そして、
「……いらない」
と言った。
「名前なんて」
男は少しだけ寂しそうに笑った。
「そっか」
「どうせ消える」
「……そうだね」
そのやり取りのあと、二人の間に沈黙が落ちる。
けれど、それは最初の沈黙とは違っていた。
何もない空白ではなく、何かが少しだけ満ちているような沈黙。
彼女は再びペンを持つ。
ノートに向かう。
ゆっくりと、書き始める。
けれど、ある日、誰もいないはずの部屋に、誰かが現れる。
彼女はふと顔を上げる。
男はそこにいる。
消えていない。
「……まだいるのか」
「うん」
「しつこいな」
「君が書いてる間はね」
彼はそう言って、少し笑った。
彼女はペンを止めずに言う。
「……じゃあ、しばらくはいい」
男は何も言わなかった。
ただ、そこにいた。
それだけで、部屋の静けさは、ほんの少しだけ変わっていた。
そして彼女はまだ気づいていない。
この幻覚が、自分が落ち込んだ時にしか現れないということに。




