The story’s 耳を澄ます(読み切り)
夜の街がゆっくりと灯り始めるころ、
その居酒屋の暖簾は静かに外へ垂らされる。
赤い布の暖簾は、昼間の風をまだ少し残して揺れている。
店の前の細い路地には、湿ったアスファルトの匂いが残っていた。
昼に少しだけ降った雨のせいだ。
店の中では、もう火が入っている。
コンロの上で小さく青い炎が揺れ、
油の温まる音が、じわじわと広がっていく。
私は、カウンターの内側に立っていた。
包丁を握り、
まな板の上のキャベツを細く刻んでいる。
シャッ、シャッ、と。
同じ音が一定のリズムで続く。
店は広くない。
カウンターは八席だけ。
奥に小さなテーブル席が一つあるだけの店だ。
壁には少し色あせた短冊のメニューが並んでいる。
焼き鳥。
だし巻き。
冷や奴。
唐揚げ。
どれも特別な料理じゃない。
どこにでもあるような居酒屋の料理だ。
私は黙って準備を続ける。
グラスを並べ、
箸を整え、
醤油差しを拭く。
時計を見ると、六時少し前。
そのとき、暖簾が揺れた。
「こんばんはー」
軽い声とともに、最初の客が入ってくる。
四十代くらいの男だった。
スーツの上着を肩にかけ、ネクタイを少し緩めている。
主人公は軽く頭を下げる。
「いらっしゃいませ」
男はいつもの席に座る。
カウンターの端、入り口から二番目の席。
そこがこの人の席だった。
「とりあえずビール」
「はい」
私はグラスを取り、
冷えたビールを注ぐ。
泡がゆっくり盛り上がる。
グラスを置くと、男は一口飲んだ。
「はぁ……」
深く息を吐く。
それだけで、
一日の疲れが少し抜けたような顔になる。
しばらくは静かだった。
テレビの音。
油の音。
グラスが置かれる音。
そしてまた暖簾が揺れる。
「お、もう来てる」
入ってきたのは、少し年上の男。
この店ではよくあることだった。
客同士は知り合いではない。
でも、顔は見覚えている。
同じ時間に来るからだ。
「どうも」
「どうも」
軽く会釈だけする。
二人は少し間を空けて座る。
「俺もビール」
私はまたグラスを取り出す。
ビールの泡の音が小さく弾ける。
少ししてから、二人目の男が言った。
「今日、電車止まっててさ」
最初の男がグラスを持ったまま顔を向ける。
「へぇ、どこ?」
「駅の手前。なんか人身だって」
「あー……」
その一言だけで、二人とも少し黙る。
店の空気がほんの少しだけ重くなる。
私は唐揚げの下味を揉み込みながら、その話を聞いていた。
「最近多くない?」
「多いね」
「この前もあったよな」
「うん」
言葉は短い。
でも、そのあと少し沈黙が流れる。
テレビではバラエティ番組が流れている。
誰かが大きく笑っている。
その音だけが、やけに明るい。
やがて二人目の男が笑った。
「まぁ俺には関係ないけどさ」
最初の男も苦笑する。
「遅刻したら関係あるだろ」
「いや、今日休み」
「ああ」
二人はまたビールを飲む。
グラスの水滴がカウンターに落ちる。
しばらくして、三人目の客が入ってくる。
少し年配の男だった。
白髪が混じっている。
「こんばんは」
「いらっしゃいませ」
男はカウンターの真ん中に座る。
「熱燗ある?」
「あります」
私は徳利を温める。
湯気がゆっくり立ち上る。
その間、男は隣の二人を見て言った。
「仕事帰り?」
「まぁ」
「そんなとこ」
男は少し笑う。
「いいなぁ」
「え?」
「仕事あるだけ」
その言い方は軽かったが、
どこか本気の響きがあった。
私は徳利を出す。
男はゆっくり酒を注ぐ。
湯気が顔の前を通る。
一口飲んで、目を細めた。
「退職したんだよ、去年」
誰に言うでもなく言った。
二人のサラリーマンは顔を向ける。
「へぇ」
「長かったんですか?」
「四十年」
それを聞いて、二人とも小さく笑った。
「長いですね」
「だろ」
男はまた酒を飲む。
「最初はさ、楽だったよ」
グラスを回しながら言う
「朝起きなくていいし」
「まぁそうですね」
「でも三ヶ月くらいしたらさ」
少し間が空く。
「やることないんだよ」
店の中で油が弾ける
私は黙って唐揚げを揚げる。
「散歩して、昼飯食って、テレビ見て」
男は笑う。
「それで一日終わり」
誰も笑わない。
「人ってさ」
男はカウンターの木目を指でなぞる。
「暇すぎてもダメなんだな」
そのとき、暖簾がまた揺れた。
若い女が入ってくる。
カバンを肩にかけ、少し疲れた顔をしている。
「こんばんは」
私は軽く頭を下げる。
女は一番端の席に座る。
「レモンサワーください」
私は氷を入れ、
レモンを絞る。
女はスマホを見ながら
ふと隣の会話に耳を向ける
退職した男が続けていた。
「会社の文句言ってた頃の方が楽しかったな」
二人のサラリーマンが笑う
「それわかる」
「絶対そう」
女も少しだけ笑った。
それに気づいた男が言う。
「お姉さんも仕事帰り?」
女は顔を上げる
「はい」
「大変?」
少し考えてから答える。
「まぁ…」
レモンサワーを一口飲む。
「上司がちょっと」
それだけ言う。
三人の男が一斉に頷く
「それは大変だ」
「だな」
「世の中それだ」
店の空気が少しだけ柔らかくなる。
私は皿に唐揚げを盛る。
湯気が立ち上る。
カウンター越しに置く。
誰が頼んだわけでもないが、
自然と皆の視線が集まる。
「美味そう」
一人が言う
私は何も言わなかった
ただ次の皿を準備する。
店の時計は、もう八時を過ぎている。
外の路地では
また誰かが暖簾をくぐろうとしていた
店の中では
さっきまで知らなかった人たちの声が
ゆっくりと混ざり合っていた。
私それを聞きながら
グラスを洗う。
水の音の向こうで
誰かの一日の話がまた始まる。




