The story’s なくなる 2
夜の通りは、人が少なかった。
昼間のざわめきはどこにもなく、石畳の上を歩く足音だけが静かに響く。
窓の向こうでは灯りが揺れ、人影がゆっくり動いている。
カイはその通りを歩き、角にある古い喫茶店の前で立ち止まった。
小さな店だ。
看板の文字は少し消えかけている。
扉を押す。
カラン。
乾いたベルの音が鳴った。
店の中は暖かい。
コーヒーの匂いが空気に溶けている。
客は一人だけだった。
窓際の席で、静かにカップを持っている男。
カウンターの奥には店主がいた。
白いシャツの袖をまくり、コーヒーを淹れている。
カイはカウンターの席に座った。
椅子が少しきしむ。
店主は顔を上げた。
「久しぶりだね」
「そう?」
店主は少し笑う。
湯気が立つカップをカウンターに置く。
「飲む?」
「うん」
カイはカップを手に取った。
熱が指先に伝わる。
しばらく二人は黙っていた。
時計の音だけが店の中で小さく鳴っている。
カイは窓の外を見ながら言った。
「この店、長いよね」
店主はミルを回していた手を止めた。
「そうかな」
「俺が子供の頃からある」
「そうかもしれないね」
店主はまた豆を挽き始める。
ゴリ、ゴリ、と低い音。
カイは少し考えてから聞いた。
「店主は何年ここにいるの?」
店主はすぐには答えなかった。
ミルを回しながら、ゆっくり言う。
「覚えてない」
カイは笑った。
「本当に?」
「本当」
店主は豆をフィルターに移す。
「覚える必要がないから」
お湯を注ぐ。
ゆっくり膨らむコーヒーの粉。
香りが広がる。
店主はその様子を見ながら言った。
「年を取らないと、時間の形がぼやけるんだ」
カイはカップの中を見つめた。
黒い液体。
揺れる表面。
「でもさ」
カイは言う。
「それでも、みんな…」
言葉を探す。
「途中でいなくなるよね」
店主は少しだけうなずいた。
「そうだね」
「どうしてだと思う?」
カイの声は静かだった。
店主はコーヒーをカップに注ぎながら言う。
「どうしてだと思う?」
逆に聞いた。
カイは少し困った顔をする。
「わからないから聞いてる」
店主は笑った。
「みんな同じだよ」
カップをカウンターに置く。
それから、窓の外をちらりと見た。
夜の街灯が揺れている。
「この店に来る人もね」
店主は言った。
「たまに同じ質問をする」
カイは顔を上げる。
「なんて答えるの?」
店主は少し考えるふりをした。
そして肩をすくめる。
「答えない」
「え?」
「だって」
店主はカウンターに肘をついた。
「答えられる人、誰もいないから」
カイはカップを口に運ぶ。
苦い。
でも温かい。
店主は続ける。
「人は理由を知りたい」
「理由がないと怖いから」
「だから、自分で作る」
カイは聞いていた。
店主は指でカウンターを軽く叩く。
「夢だと思う人もいる」
「愛だと思う人もいる」
「記憶だと思う人もいる」
それから少しだけ間を置く。
「でもね」
カイは店主を見る。
店主は笑っていた。
静かな笑い方だった。
「たぶん」
「それ全部、想像だよ」
店の時計がカチ、と鳴った。
カイはしばらく黙っていた。
それから言う。
「店主は?」
「ん?」
「店主は何が削られてると思う?」
店主は答えなかった。
コーヒーカップを拭きながら、ゆっくり言う。
「考えないようにしてる」
カイは少し驚いた顔をした。
「どうして?」
店主はカップを棚に戻す。
その動きは静かだった。
「考えすぎると」
少し笑う。
「店が続かなくなるから」
カイは思わず笑った。
「それ、理由になってる?」
店主は肩をすくめる。
「この街では、十分だよ」
窓の外で風が吹いた。
街灯が少し揺れる。
店の中にはコーヒーの匂いが残っている。
カイはカップを置いた。
店主はそのカップを見て言った。
「もう一杯?」
カイは少し考えてから首を振った。
「今日はいいや」
店主はうなずいた。
「そう」
それから、何でもない声で言う。
「また来ればいい」
カイは立ち上がった。
扉に向かう。
ベルが鳴る。
カラン。
外に出ると、夜の空気は少し冷たかった。




