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The story’s (あるバスは決まりなく色んな街、色んな街に進いていて、 バスの窓から色んな場所色んな物語見て語る話)  作者: San


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The story’s 目の見えない子と耳の聞こえない子の目線(読み切り)

――見えない子――


手を引かれている。


指の間に入ってくる大人の手は少し乾いていて、でもどこかあたたかい。

その温度が、これから何かが始まることを教えてくれている気がした。


足元は硬い床。

靴の裏で小さく響く音が、広い場所だと教えてくる。


ざわざわしている。


たくさんの人がいる気配。

話し声は遠くで重なって、言葉の形を失っている。

それでも、それぞれの息の混ざり方や、動く布の擦れる音で、人の多さがわかる。


「ここだよ」


そう言われて、座らされる。

椅子の背もたれは少し冷たい。


しばらくすると、空気が変わる。


ざわざわが、ゆっくりと沈んでいく。

誰かが合図を出したわけでもないのに、みんなが同じ方向を向いているのがわかる。

音が、ひとつの静けさにまとまっていく。


静かだ。


でも、何もない静けさじゃない。


誰もが何かを待っている静けさ。


その中で、ふと匂いに気づく。


少し甘い香り。

誰かの香水。

それに混じって、機械のあたたまったような、少し乾いた匂い。

照明なのか、機材なのかはわからないけど、舞台が近くにある感じがする。


息を吸うたびに、その場所の形が少しずつわかってくる。


そして――


音が生まれる。


最初は、とても細い。


まるで遠くで水が流れ始めたみたいな音。

それがゆっくりと近づいてくる。


歌だ。


声は強くない。

押しつけるような声じゃない。


そっと触れてくる。


耳にではなく、体の中に入ってくるような感じ。


低い音が胸の奥に広がって、

高い音が空気の上の方で揺れている。


その間に、自分がいる。


歌っている人の姿は見えない。

でも、その人がどこに立っているかはわかる。


声の位置が、まっすぐ前にあるから。


周りの人たちは、ほとんど動かない。

誰も咳をしない。

椅子のきしむ音も、ほとんどない。


ただ、呼吸だけがある。


何百人もの呼吸が、同じリズムでゆっくりと流れている。


その中で、歌だけが動いている。


匂いも、変わっていく。


少しずつ、あたたかくなる。

人の体温が集まって、空気が柔らかくなる。


歌の間に、小さな沈黙が入る。


その瞬間、世界が止まる。


誰も動かない。

誰も音を立てない。


その静けさが、さっきよりも深い。


そしてまた、声が戻ってくる。


その繰り返し。


時間がどれくらい経ったのか、わからない。


でも、終わりが近いことだけは、わかる。


歌が、少しずつほどけていくから。


最後の音が、空気に溶ける。


消える、というよりも、広がっていく。


そのあと、ほんの少しだけ何もない。


完全な静けさ。


それから――


拍手。


でも、大きくない。


優しく包むような音。


その中で、子どもは小さく息を吐く。


見えなかったけど、

ちゃんとそこにあった。


触れられなかったけど、

確かに近くにあった。


さっきまでの歌が、まだ胸の中に残っている。


手を握る。


最初と同じ手。


でも、少しだけ、強く握り返した。


――耳の聞こえない子――


光が落ちる。


天井の照明がゆっくりと暗くなっていく。


それだけで、空気が変わるのがわかる。


周りの人たちの動きが止まる。


肩の揺れが少なくなる。

口の動きが減る。


誰もが前を見ている。


その方向に、舞台がある。


彼女も、同じ方向を見る。


舞台はまだ暗い。


でも、完全な暗闇じゃない。


機材の小さなランプが点いている。

赤や青の小さな光が、点のように浮かんでいる。


匂いがする。


少し焦げたような、温まった空気の匂い。

それに混じって、たくさんの人の匂い。


服の柔らかい匂い。

髪の匂い。

香水の匂い。


それらが重なって、ひとつの場所の匂いになる。


舞台に光が灯る。


ゆっくりと。


白い光が、床から立ち上がるように広がる。


そこに、人が立っている。


マイクを持っている。


口が開く。


歌っている。


音は聞こえない。


でも、わかる。


喉の動き。

胸の上下。

息の流れ。


それがリズムになっている。


後ろの演奏者たちも動く。


指が弦をなぞる。

手が鍵盤に触れる。

ドラムのスティックが空気を切る。


それぞれの動きが、違う速さで、でもどこか揃っている。


それが、音になっているのだとわかる。


客席を見る。


みんな、ほとんど動かない。


揺れない。


飛ばない。


ただ、じっと見ている。


その静けさが、目で見てわかる。


誰かの目が閉じている。

誰かの指が、わずかに震えている。


それだけで、この場の空気が伝わってくる。


照明が変わる。


暖かい色になる。


オレンジの光が、歌っている人を包む。


その光の中で、表情が柔らかくなる。


笑っているわけじゃない。


でも、どこか優しい顔。


歌の形が、顔に出ている。


彼女は少し前に体を乗り出す。


見逃したくない。


音が聞こえない分、

全部を目で受け取りたい。


舞台の端で、誰かが目を閉じる。

また別の人が、ゆっくりと息を吐く。


それが、波のように広がる。


観客の体の中で、何かが揺れているのが見える。


匂いも変わる。


少し湿った空気。


人の熱が集まって、濃くなる。


時間が流れていく。


照明は少しずつ落ち着いて、

動きもゆっくりになる。


歌っている人の動きも、小さくなる。


終わりに近づいている。


最後の瞬間。


口の動きが止まる。


同時に、演奏者たちの動きも止まる。


完全に静止する。


その一瞬。


世界が、写真のようになる。


誰も動かない。


そして――


一斉に動き出す。


手が上がる。

拍手。


音は聞こえない。


でも、見える。


無数の手が、同じリズムでぶつかり合う。


その動きが、空気を震わせているのがわかる。


笑っている人。

涙を拭う人。


その表情が、すべてを語っている。


彼女はゆっくりと息を吸う。


この場所は、音がなくても満ちていた。


光と動きと匂いで、全部伝わってきた。


舞台の人が一礼する。


観客も、少しだけ頭を下げる人がいる。


その連なりが、とても静かで、美しい。


彼女は目を細める。


まだ、その景色を見ていたいと思う。


消えていく光の中で、

さっきまでのすべてが、ゆっくりと余韻として残り続けていた。

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