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The story’s (あるバスは決まりなく色んな街、色んな街に進いていて、 バスの窓から色んな場所色んな物語見て語る話)  作者: San


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The story’s 渡り鳥 (読み切り)

朝の空気は、まだ少し冷たかった。


窓を開けると、向かいの家の屋根の上で雀が数羽、ぎこちない声で鳴いている。

遠くで自転車のブレーキの音がして、新聞配達の人が坂道を降りていった。


家の中は静かだった。


キッチンのテーブルの上には、昨夜のまま置かれているマグカップが一つ。

冷めきったコーヒーの跡が、薄い輪になって底に残っている。


椅子に座り、ぼんやりと窓の外を見る。


向かいの家の玄関が開く。

会社員らしい男が出てきて、ネクタイを直しながら足早に坂を下りていく。


その後ろから小学生の兄妹が走り出し、母親が「忘れ物ない?」と声をかける。


どこの家にも、朝というものがある。


だが、この家にはもう一つ、少し違う朝がある。


隣の部屋の扉は開いている。

ベッドはきれいに整えられているが、そこには誰もいない。


昨夜も、帰ってきていない。


それは珍しいことではなかった。


むしろ、家にいるほうが珍しい。


「またどこか行ってるのか」


そう呟いてみるが、特に驚きもない。


最初の頃は心配していた。

夜遅くまで帰ってこない日もあったし、朝になっても部屋が空っぽなこともあった。


けれど今では、それが当たり前の景色になっている。


どこへ行っているのか。


聞いたことはある。


そのとき彼女は少し考えてから、こう言った。


「うーん……そのへん」


そのへん、という言葉の中には、

公園も、川も、海も、町も、たぶん全部含まれている。


それ以上は聞かなかった。


聞いても、きっと同じ答えだからだ。


昼前、買い物に出ることにした。


坂の多いこの町では、歩くたびに少し息が上がる。

古い家々の間を抜け、細い道を下っていく。


途中、小さな公園がある。


滑り台と、ブランコが二つ。

砂場の端には、古びたベンチが置かれている。


そこに、座っていた。


遠くからでも分かる。


背中の形で分かるのだ。


ベンチに浅く腰かけて、空を見上げている。


風で髪が揺れている。


少し近づくと、彼女がこちらに気づいた。


「あ」


と、短く声を出す。


「また外?」


そう聞くと、彼女は笑った。


「うん」


それだけだった。


隣に座る。


ベンチは太陽で温まっていた。


公園には誰もいない。

遠くで犬の鳴き声が聞こえるだけだ。


彼女はしばらく空を見ていた。


「今日はここ?」


「うん。さっき来た」


「家は?」


「朝ちょっと寄った」


寄った、という言い方をする。


まるで家が途中の店みたいに。


砂場の隅で、風が砂を少しだけ動かす。

滑り台の金属がきらりと光る。


彼女は急に立ち上がった。


「じゃあ、行くね」


「どこに」


「そのへん」


やっぱり同じ答えだった。


そしてそのまま、公園の出口へ歩いていく。


呼び止めることはしない。


彼女は振り返りもしないで、坂の向こうに消えていった。


ベンチには、まだ体温が残っていた。


それから数日後。


夕方のスーパーだった。


店内には揚げ物の匂いが広がっている。

レジの前には小さな列ができている。


野菜売り場の端で、見つけた。


トマトを手に取って、真剣な顔で眺めている。


近づく。


「何してるの」


彼女は驚いた顔をした。


「あ」


「また外?」


「うん」


トマトを戻す。


「買い物?」


「いや、見てただけ」


「何を」


「赤いなって」


確かに赤い。


当たり前のように赤い。


二人で少し笑った。


スーパーの蛍光灯の下では、時間の感覚が少し変になる。

外が夕方なのか夜なのか、分からなくなる。


レジの放送が流れる。


「本日、卵が特売です」


彼女はそれを聞いて、


「卵か」


と言った。


「買う?」


「いや」


また少し店内を歩く。


冷凍食品の前で立ち止まり、

パン売り場を通り過ぎる。


結局、何も買わない。


「帰る?」


そう聞くと、彼女は首をかしげた。


「うーん」


少し考えて、


「もうちょっと歩く」


と言った。


外へ出ると、空はすっかり夕焼けだった。


雲が長く伸びている。


スーパーの自動ドアの前で、彼女は靴の先で地面を軽く蹴る。


「じゃあね」


「うん」


また歩き出す。


今度は川のほうへ向かっている。


どこへ行くのかは、やっぱり分からない。


夜、家に戻る。


玄関の靴は一足だけ。


静かな家。


電気をつける。


キッチンの椅子に座る。


少しして、玄関の音がした。


ドアが開く。


彼女だった。


「あ、いた」


まるで外で会ったときみたいに言う。


靴を脱いで、リビングに入る。


「どこ行ってたの」


「川」


「何してたの」


「見てた」


「何を」


「流れるやつ」


それだけ言って、ソファに座る。


しばらく沈黙が続く。


時計の秒針が進む音が聞こえる。


やがて彼女が言う。


「ねえ」


「ん?」


「この町、歩くと結構広いね」


「そう?」


「うん」


少し考えて、


「まだ全部行ってない」


と言った。


そして窓の外を見る。


夜の町は静かだ。


遠くで電車の音がする。


彼女はふっと笑う。


「明日、どこ行こうかな」


そう言う顔は、もう半分外にいるみたいだった。


たぶん明日も、家にはいない。


そしてまた、私は彼女を探しどこかの公園や店や道で、

見かけるのだろう。


そのとき彼女はきっと、同じように言うだろう


「あ」


と。


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