The story’s 自分(読み切り)
朝は、音よりも先に光で始まった。
カーテンの隙間から細く差し込む白い線が、部屋の空気をゆっくりと裂いていく。その光が、ベッドの上に横たわる一人の体の輪郭をなぞっていた。布団の皺、枕のへこみ、わずかに開いた口元。どれも見慣れたはずのものなのに、どこか遠い。
――いや、遠いのではなく、距離があった。
視点が、天井の近くにあった。
呼吸をしようとする感覚はあるのに、肺は動かない。まばたきをしようとしても、まぶたの感触がない。代わりに、下にある“自分”がゆっくりと目を開けるのが見えた。
それは、あまりにも自然な動きだった。
目を細め、眩しそうに顔をしかめ、片手で額を押さえる。寝起き特有の、鈍い思考のままに体を起こす。その一連の動作に、違和感はひとつもない。癖も、仕草も、呼吸の間合いも、全部知っている。
けれど――動かしているのは、こちらではない。
「……え?」
声を出したつもりだった。だが、空気は震えなかった。下にいる“自分”は、何も聞いていない顔で、ただ首を軽く回している。
布団から足を出し、床に触れる。冷たさにわずかに肩をすくめるその反応すら、完璧に再現されていた。
その瞬間、奇妙な確信が胸のどこかに沈んだ。
――ああ、これは夢じゃない。
理由は分からない。ただ、夢にしては細部が現実すぎた。埃の浮き方、床のわずかな軋み、遠くで走る車の音。それらが一つひとつ、逃げ場を与えないほど正確にそこにある。
下の“自分”は立ち上がり、カーテンを開けた。
朝の光が一気に部屋へ流れ込み、空気が白く広がる。目を細める仕草も、少しだけ肩を引く癖も、そのままだった。
「……どうなってる」
今度は、はっきりとそう言ったつもりだった。
けれどやはり、何も変わらない。
“自分”は振り返りもせず、スマートフォンを手に取り、画面を確認する。通知を一つずつ流し見て、ため息をつく。その吐息の重さすら、見ているこちらの胸に重なってくる。
――完全に、自分だ。
違いがあるとすれば、ただ一つ。
こちらは、何も触れられない。
試しに、天井から降りるように意識を向ける。すると、体はないはずなのに、視点だけがゆっくりと下がっていく。床に近づくにつれ、現実の質感がより濃くなる。木目の細かな傷、落ちている髪の毛一本、昨日脱ぎっぱなしにした靴下。
そのすぐ横に、“自分”の足がある。
触れようとした。
けれど、指は存在しない。ただ「触れる」という意志だけが、空を掴んで消える。
そのまま、“自分”は洗面所へ向かった。
後を追う。
水の音が流れ始める。蛇口をひねる手、顔に水をかける動作、タオルで拭く仕草。鏡に映るその顔は、間違いなく自分のものだった。
けれど、鏡の中に“こちら”はいない。
何度も位置を変えてみる。上から、横から、すぐ背後から。
それでも、鏡に映るのは一人だけ。
まるで最初から、“こちら”など存在していないかのように。
――死んだのか。
ふと、そんな考えが浮かぶ。
だが、その答えを否定するように、“自分”は歯を磨きながら小さくあくびをした。眠そうに目をこすり、いつもの癖で少しだけ眉を寄せる。
生きている。
確かに、生きている。
じゃあ――これは何だ。
考えようとするほど、答えは遠ざかる。代わりに、目の前の現実だけが、無慈悲に進んでいく。
朝食の準備。トースターにパンを入れ、コーヒーを淹れる。何もかもが日常通りだ。
ただ一つ違うのは、それを“自分でやっていない”こと。
椅子に座り、パンをかじる“自分”を、すぐ隣で見ている。手を伸ばせば届きそうな距離なのに、永遠に触れられない距離。
「……なあ」
思わず声をかける。
当然、返事はない。
それでも続ける。
「気づかないのか?」
問いかけは、空気に吸い込まれるだけだった。
“自分”はコーヒーを一口飲み、わずかに顔をしかめる。少し濃かったらしい。その反応に、妙な懐かしさを覚える。
――ああ、これ、いつもやる。
そんな風に、記憶がぴたりと重なる。
完全に同じだ。
もし、このままずっと続くなら。
この先も、“自分”は同じように生きていくのだろうか。
学校や仕事へ行き、人と話し、笑い、悩み、選び、失敗し、また進む。
そのすべてを、こちらはただ見ているだけ。
止めることも、変えることも、やり直すこともできない。
パンの最後の一口が口に運ばれる。
皿の上には、もう何も残っていない。
“自分”はしばらくその皿を見つめていた。食べ終わったあとの、ほんの数秒の空白。次に何をするか決めるまでの、あの微妙な間。
――ああ、この時間、いつもある。
意識していなかっただけで、確かに毎朝繰り返していたものだ。
やがて“自分”は小さく息を吐き、立ち上がる。皿を持ち上げ、流しへ運ぶ。水の音が再び部屋に広がる。
その後ろに、ぴたりとついていく。
背中の動きがよく見える距離だった。肩甲骨のわずかな動き、腕の角度、指先の力の入れ方。どれも、自分でやっていたはずのものなのに、こうして外側から見ると、まるで他人の習慣のように感じられる。
皿を洗う手つきは、少し雑だった。
水を流しっぱなしにする癖も、スポンジを無駄に強く握るところも、全部そのまま。
「……もったいないな」
呟く。
前から思っていたことだ。
けれど、その“思っていたこと”を、実際に直したことはなかった。
“自分”は水を止め、軽く手を振って水滴を落とす。そのしぶきが床に小さく散る。
それを見て、また思う。
――拭けよ。
けれど、“自分”はそのままタオルで手を拭き、何事もなかったように部屋へ戻る。
何も変わらない。
本当に、何も変わらない。
玄関へ向かい、靴を履く。
靴べらは使わない。かかとを軽く踏みながら無理やり足を押し込む。何度もやっていた癖だ。革が少しずつ潰れていく感触も、覚えている。
ドアの前で、一瞬だけ止まる。
鍵を持ったまま、ほんの一秒ほど考える。
――ああ、これ。
忘れ物がないか、頭の中で確認している時間。
財布、スマートフォン、鍵。
その三つだけを繰り返している。
“自分”は小さく頷くと、鍵を回し、ドアを開ける。
外の空気が流れ込む。
朝の街は、すでに動き出していた。遠くの信号の音、通りを歩く人の足音、自転車のチェーンの擦れる音。
その中に、“自分”が溶け込んでいく。
追いかける。
足はないのに、離れようと思えば離れられるはずなのに、自然と距離は保たれていた。一定の高さ、一定の位置。まるで見えない糸で繋がれているみたいに。
通りを歩きながら、“自分”は何度かスマートフォンを取り出す。
画面を見るたび、表情がわずかに変わる。
ほんの少しだけ眉が動く。
何を見ているか、なんとなく分かる。
通知、ニュース、どうでもいい情報。
そのどれにも、完全には集中していない顔。
――それでも、見るんだな。
やめようと思えばやめられるのに、手は勝手に動く。
その“勝手”が、今はやけに鮮明だった。
横断歩道に差し掛かる。
赤信号。
“自分”は立ち止まり、ポケットに手を入れる。周りの人間と同じように、ただ待つ。
その横顔を、少し近くで見る。
無表情だった。
いや、正確には、何も考えていないわけではない。けれど、どこにも強く焦点が合っていない。
思考が流れている。
断片的に、次々と。
昨日のこと、今日の予定、特に意味のない記憶。
それが顔にわずかに浮かんでは消えていく。
――こんな顔、してたのか。
自分では見たことのない、自分の“何もしていないときの顔”。
信号が青に変わる。
人の流れが動き出す。
“自分”もその中に混ざって歩き出す。
歩幅、リズム、腕の振り方。
全部、知っているはずなのに、やはり少しだけ違和感がある。
外から見ると、こんなにも機械的に見えるのか。
一定のリズムで足を出し、同じように腕を振る。
考えているようで、ほとんど何も考えていない動き。
考えているようで、ほとんど何も考えていない動き。
その流れのまま、“自分”は駅へ向かうかと思った。
けれど、角の手前で、ほんのわずかに足が止まる。
一瞬だけ、視線が横に逸れる。
そこには、小さな店があった。
ガラス越しに並ぶパンと、白い光に照らされた棚。朝の匂いが、扉の隙間からわずかに漏れている。
――あ。
記憶が重なる。
いつもは通り過ぎる場所だ。
時間がないから、面倒だから、なんとなく。
理由にもならない理由で、選ばなかった場所。
“自分”は、ほんの一秒だけ立ち尽くす。
その足先が、進む方向を迷っているのが分かる。
駅へ向かう流れは、すぐそこにある。
人の波も、時間の流れも、すべてそちらに向かっている。
けれど。
“自分”は、そちらに戻らなかった。
ゆっくりと、店の方へ向きを変える。
ドアを押す。
小さなベルの音が鳴る。
その音を、すぐ近くで聞く。
柔らかく、短い音。
店の中は、外よりも少し暖かかった。パンの甘い匂いと、焼けた生地の香ばしさが空気に溶けている。
“自分”は、少しだけ周りを見回す。
目の動きが、いつもより遅い。
――珍しいな。
普段なら、すぐに一つだけ選んで終わる。
考える時間を減らすように、無意識に選択を狭める。
けれど今は、違った。
棚の前で立ち止まり、一つひとつを見る。
値段を見る。
形を見る。
匂いを感じるように、わずかに息を吸う。
そのすべてが、ゆっくりだった。
――時間、あるのか。
いや、あるわけじゃない。
ただ、今は「急がない」という選択をしている。
“自分”は、一つのパンを手に取る。
少しだけ迷う。
元に戻しかけて、また手に取る。
そして、そのままトレーに置いた。
もう一つ、別のパンにも手が伸びる。
それも、選ぶ。
二つ。
――増えた。
いつもは一つだけだ。
それで十分だと決めていた。
それ以上は無駄だと、どこかで決めつけていた。
けれど今は、二つ。
理由は分からない。
ただ、選んでいる。
レジへ向かう。
会計を済ませる。
その一連の動きの中で、“自分”の表情はわずかに柔らかくなっていた。
外に出る。
朝の光が、少しだけ強くなっている。
時間は進んでいる。
さっきまでの流れから、少しだけ外れたはずなのに、世界は何も変わらず動いている。
“自分”は歩きながら、袋の中をちらりと見る。
中身を確認するように。
その仕草が、少しだけ丁寧だった。
――こういうの、あったか。
忘れていたわけじゃない。
ただ、やらなくなっていただけだ。
再び歩き出す。
今度は、さっきよりもわずかに足取りが軽い。
電車に乗る。
同じように揺れ、同じように立つ。
けれど、さっきと違うものが一つある。
袋を持っている。
それだけで、動きの一部が変わる。
持ち替える。
位置を調整する。
その小さな変化が、全体の流れに影響している。
――ほんの少しで、変わるんだな。
観察していると、時間の流れが見えてくる。
同じ一日の中でも、選択が積み重なって、少しずつ形が変わる。
駅に着く。
人の流れに乗る。
改札を出る。
歩く。
その途中で、“自分”は一度だけ立ち止まる。
壁にある時計を見る。
時間を確認する。
――遅れてる。
ほんの少しだけ。
さっきの寄り道の分。
けれど、その顔に焦りはない。
むしろ、受け入れているような静けさがあった。
再び歩き出す。
少しだけ早く。
けれど、走らない。
その選択もまた、今の“自分”だ。
建物に入る。
日常が始まる場所。
そこでも、“自分”は同じように動く。
挨拶をする。
席に着く。
作業を始める。
そのすべてが、これまでと変わらないようでいて、ほんのわずかに違う。
手の動き。
視線の落とし方。
間の取り方。
些細な差が、積み重なっていく。
時間が進む。
昼になる。
“自分”は、朝に買ったパンを取り出す。
袋を開ける。
一つを食べる。
もう一つは、少しだけ見つめる。
――食べるか。
迷う。
そして
ほんの一瞬、口元が緩む。
その表情を、すぐ近くで見る。
それは、これまであまり見たことのない顔だった。
“自分”は、二つ目のパンも食べる。
ゆっくりと。
味わうように。
時間をかけて。
その時間が、午後の流れを少しだけ遅らせる。
けれど、その遅れは、悪いものではないように見えた。
午後も、同じように過ぎていく。
けれど、その中で、“自分”は何度か小さな選択をする。
いつもなら後回しにすることを、先にやる。
いつもなら流す言葉に、少しだけ反応する。
ほんの少しだけ、立ち止まる。
それらはすべて、目立たない変化だった。
けれど、確かに積み重なっている。
――こうやって、生きていくのか。
大きく変わるわけじゃない。
劇的な何かが起きるわけでもない。
ただ、選択が、少しずつ流れを変えていく。
夕方になる。
光が少し柔らかくなる。
“自分”は帰り道を歩く。
朝と同じ道。
同じ景色。




