The story's 兄さんは2026年に生きている 3
兄の部屋の前を通ると、いつも同じ空気がある。
少し湿っていて、
少し暗くて、
時間が止まっているような空気。
私はその空気の中を、毎日通る。
この家で暮らす人間は四人。
父、母、兄、そして私。
けれど、家の中には四人の生活があるわけではない。
三つと、一つ。
父と母と私の生活。
そして、兄の生活。
兄は部屋からほとんど出ない。
父も母も、兄と話さない。
それは怒っているからではない。
もう怒ることも終わったあとみたいな静けさだった。
最初のころは違ったらしい。
兄が変わり始めたとき、
父は怒った。
母は泣いた。
兄は説明した。
「今は2026年だ」
と。
父は机を叩いたらしい。
母は兄の肩を揺すったらしい。
でも兄は、
ずっと同じことを言った。
「スマホあるだろ」
「Wi-Fiあるだろ」
「AIあるだろ」
誰も何を言っているのか分からなかった。
そして時間が過ぎた。
今は、もう誰も聞かない。
朝、私は井戸の水をくみに庭へ出る。
石の井戸の縁はいつも冷たい。
桶を落とすと、
水の中で鈍い音がして、
少し遅れて水の重みが手に伝わる。
それを持ち上げて、台所へ運ぶ。
母はパンを焼いている。
小麦の匂いが広がる。
父はすでに食卓に座っている。
父は兄の部屋の方を見ない。
母も見ない。
「兄さん、起きてる?」
私が聞くと、
母は少しだけ手を止める。
「起きてるでしょ」
母は言う。
それだけ。
パンが焼ける。
私は皿に乗せる。
父が一つ取る。
母も座る。
兄の席は、空いたままだ。
食事が終わると、私は皿を洗う。
それから、パンを一つ持って、二階へ上がる。
兄の扉は、今日も少し開いている。
中をのぞく。
兄はベッドに座っている。
黒い板を見ている。
指を動かしている。
「兄さん」
兄は振り向かない。
「ん?」
「パン」
私は差し出す。
兄はそれを見る。
「ありがとう」
兄はパンを持ち上げて、少し考える顔をして
兄は言う。
「今日はドミノのピザか」
そして一口かじる。
また一口食べる。
それからまた黒い板を見る。
指が動く。
「何してるの?」
私が聞く。
兄はすぐ答える。
「X」
私は黙る。
兄を見る。
兄も私を見る。
「知らない?」
私は首を振る。
兄は少し驚いた顔をする。
「昔のTwitterだよ」
私は黙る。
兄の言葉は、だいたいこういう感じだ。
半分は聞いたことがない。
半分は、意味が分からない。
兄はまた板を見る。
「トレンド見てる」
「とれんど?」
「今みんなが話してる話題」
兄は言う。
「AIとか」
「えーあい?」
兄は少し真面目な顔をする。
「AIはな」
兄は言う。
「人類を支配する可能性ある」
私は兄を見る。
兄は本気で言っている顔だ。
「AIに何でも聞けるようになる」
兄は続ける。
「世界の構造とか」
兄は天井を見る。
「人間より賢くなる」
少し黙る。
「だから危ない」
兄はまた板を見る。
「でも便利」
私は窓の方を見る。
外では町の人が歩いている。
市場の声が遠くから聞こえる。
パン屋の煙。
馬車の音。
犬の鳴き声。
全部、普通の町だ。
兄は言う。
「このポスト面白い」
兄は笑う。
「炎上してる」
私は聞く。
「えんじょう?」
兄は少し考える。
「うーん」
それから言う。
「みんな怒ってる」
私は兄を見る。
兄は本当に誰かと一緒にいる顔をしている。
誰もいない部屋で。
私は部屋を出る。
廊下を歩く。
階段を降りる。
母は洗濯をしている。
父は外へ出る準備をしている。
家の中には普通の時間が流れている。
兄の部屋だけが、少し違う。
私は外へ出る。
町の道を歩く。
市場へ行く。
パンの匂い。
肉の匂い。
野菜の色。
女の人たちが話している。
子どもたちが走っている。
私はその中を歩く。




