The story’s 兄さんは2026年に生きてる 2
兄の部屋には、時間がゆっくり沈んでいる。
朝でも昼でも、
扉の向こうはいつも同じ薄暗さだ。
窓のカーテンは半分だけ閉じていて、
光は細い帯になって床を横切る。
その光の中に、兄は座っている。
ベッドの上にあぐらをかいて、
いつもの黒い板を両手で持ち、
指を動かしている。
私は今日も廊下からその様子を見ていた。
階下では母が朝の支度をしている。
鍋のふたが当たる音や、皿の触れる音が、
静かな家の中に小さく響く。
父はもう起きているはずだ。
この家では、朝はだいたい決まった流れで進む。
父が起きて、
母がパンを焼き、
私は窓を開ける。
そして兄だけが、
その流れの外にいる。
私は扉を押した。
きし、と木が鳴る。
兄は振り向かない。
ただ、言う。
「おはよう」
視線は黒い板から離れない。
「おはよう」
私は答える。
兄の指は忙しそうに動いている。
何かを読んでいるのか、
誰かと話しているのか、
私には分からない。
しばらくすると兄は板を置いた。
ベッドの横にある袋を探り、
何かを取り出す。
それは、パンだった。
昨日母が焼いた丸いパンだ。
兄はそれを見て、少し考える顔をする。
「今日は……」
兄はつぶやく。
それから言った。
「ハンバーガー」
私は少しだけ首をかしげた。
兄はパンを持ち上げ、
一口かじる。
ぱさ、と小さな音がする。
「うん」
兄はうなずく。
「バーガーキングよりは普通」
私はその言葉を聞きながら、
ベッドの端に座る。
兄はまた一口食べる。
「ポテト欲しいな」
パンしかない。
でも兄は、
本当に何か別のものを食べている顔をしている。
「コーラも」
兄はそう言って、
机の上のコップを持つ。
中には水が入っている。
井戸から汲んだ、
ただの水だ。
兄はそれを一口飲む。
そして少し目を細める。
「炭酸弱いな」
私は思わず言った。
「それ、水だよ」
兄は私を見る。
少し驚いた顔をして、それから笑う。
「違うよ」
兄はコップを軽く振る。
「コーラ」
私はコップを覗き込む。
透明な水だ。
兄はもう一口飲む。
「うん、やっぱりコーラ」
それから兄は、また黒い板を持つ。
指がまた動き始める。
「今日な」
兄は言う。
「新しい動画上がってる」
「どうが?」
「YouTube」
兄は画面を見て、笑う。
「この人面白いんだよ」
私は横からのぞく。
やっぱり、
黒い板の表面は何も変わらない。
光もない。
絵もない。
兄はその何もない板を見ながら、
ときどき声を出して笑う。
「この編集うまいな」
私は黙って兄を見る。
兄の顔は、
本当に何かを見ている人の顔だ。
階段の下で足音がした。
父だ。
重い靴の音が廊下を歩く。
その音が、兄の部屋の前を通り過ぎる。
父は、扉の方を見ない。
ただ、静かに通り過ぎる。
兄も、顔を上げない。
何も言わない。
そのまま足音は階段を降りていく。
少しして母が上がってくる。
母は扉の前で少し止まる。
ほんの一瞬だけ。
でも扉は叩かない。
母はそのまま歩いていく。
家の中では、
兄の部屋だけが別の場所みたいだ。
兄は言う。
「Wi-Fi弱いな」
指で板を何度も触る。
「今日は回線遅い」
私は窓の外を見る。
空は静かで、
雲がゆっくり流れている。
遠くの道を、
荷馬車が通っていく。
町の人が歩いている。
世界は普通に動いている。
兄は突然言う。
「今日ラーメン食べたい」
「ラーメン?」
「うん」
兄は少し笑う。
「コンビニ行く?」
私は言った。
「この町に?」
兄は一瞬だけ黙る。
それから、また板を見る。
「まあ……」
兄は小さくつぶやく。
「あとでデリバリーする」
私はその言葉の意味もよく分からないまま、
兄の横顔を見ていた。
兄は今日も、
この部屋の中で、
遠いどこかの世界を生きている。




