The story’s 兄さん2026年に生きている 1
兄の部屋の扉は、いつも少しだけ開いている。
きっちり閉めることはない。
かといって、大きく開くこともない。
廊下の薄暗い空気が、わずかな隙間から部屋へ入り、
部屋の中の空気が、ゆっくりと外へ流れてくる。
私はその隙間から、よく中をのぞく。
古い家だ。
木の廊下は歩くたびに小さく鳴るし、窓から入る光も、いつもどこか黄ばんでいる。
冬でも夏でも、部屋の中には少し湿った匂いがあった。
兄は、その部屋からほとんど出てこない。
昔は、違った。
小さいころはよく外へ行ったし、庭で私と石を並べたり、
川まで歩いて行ったりもした。
けれど、ある時から兄は変わった。
外へ行かなくなり、
人と話すことも減り、
ほとんどの時間を部屋で過ごすようになった。
そして今は——
ベッドの上で、
何か黒い板のようなものを指で触っている。
私は最初、それが何なのか分からなかった。
鏡のようにも見えるし、
本の表紙のようにも見える。
けれど兄は、それをじっと見つめながら、
指で何度も表面をなぞっている。
ときどき、笑う。
ときどき、眉をひそめる。
誰もいない部屋で、
誰かと話しているような顔をする。
その様子を、私は廊下から見ていた。
「またやってるの?」
私がそう言うと、兄は少しだけ顔を上げた。
髪はぼさぼさで、
何日も外に出ていない人の顔をしている。
けれど目だけは、妙に生き生きしている。
「うん」
兄は言った。
そして手に持っている板を軽く振る。
「それ、何?」
私が聞くと、兄は少し笑う。
「スマホだよ、スマホ
知らんのか、本当機械音痴だな]
[うちの妹は]
兄はよくその言葉を使う。
私は部屋に入る。
窓のカーテンは閉まっていて、
昼なのに部屋は夕方みたいに暗い。
机の上には本が積まれている。
けれど兄は、その本をほとんど開かない。
ずっとその板を見ている。
「このゲーム面白いな」
兄は言う。
「げーむ?」
「うん」
兄の指は、
何もない空間を触っているように見える。
けれど兄は真剣な顔だ。
ときどき、
小さく舌打ちする。
ときどき、
満足そうに息を吐く。
「いまな、オンライン」
兄は言う。
「おんらいん?」
「遠くの人と遊んでる」
兄は、当たり前のように言った。
私は思わず部屋を見回した。
誰もいない。
窓の外には庭があるだけで、
人の声も聞こえない。
遠くで鳥が鳴いているだけだ。
「どこにいるの?」
「世界中」
兄は答える。
世界中。
私は少しだけ黙る。
兄はまた指を動かし始める。
その黒い板の中に、
本当に誰かがいるのだろうか。
兄はときどき笑う。
ときどき小さく怒る。
そしてまた笑う。
「勝った」
兄が言う。
嬉しそうだ。
私はベッドの端に座る。
兄の横から、その板をのぞき込む。
黒い。
ただ黒いだけだ。
光もない。
絵もない。
文字もない。
「何もないよ」
私は言った。
兄は少し驚いた顔をする。
「え?」
「何も見えない」
兄は板を見つめる。
それから、私を見る。
「見えるだろ」
兄は言う。
「ここに画面があって」
兄は空中を指でなぞる。
「キャラがいて」
また空中をなぞる。
「ボタンがあって」
そして指を叩く。
私は黙って見ている。
兄の指は、
空気を触っているだけだった。
「兄さん」
「ん?」
「それ、本当にあるの?」
兄は少し黙る。
それから、笑った。
優しい笑い方だった。
「あるよ」
兄は言う。
「2026年には、みんな持ってる」
2026年。
兄はよくその数字を言う。
「今は?」
私が聞く。
兄は、少しだけ首をかしげた。
「今?」
兄は少し考えてから言う。
「今も2026年だろ」
窓の外では、
馬車の音が通り過ぎていく。
石畳の上を、
木の車輪が重く転がる音。
遠くで鐘が鳴る。
午後の時間を知らせる鐘だ。
兄は、その音を気にしない。
ずっと黒い板を見ている
兄の世界は、
この部屋の中にある。
窓の外では、
町の人が歩き、
市場が開き、
パンの匂いが流れている。
でも兄は外へ出ない。
兄は、
別の時間に生きてると思い込んでるらしい
窓の外では、
19世紀の町が静かに動いている。
そして部屋の中の
兄が今は2026年だと思い込んでる病気になってる




