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復讐の絃  作者: 彷徨いポエット
第弐章 震える惨劇
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1 消えた清音

 惨劇の舞台となった屋敷の中、秋綱は僅かな温もりを持ったまま、意識の戻らない栞の手を握り続けた。

「……ぁ……」

 小さな声と共に指先が動くのを感じ、秋綱は静かに栞の顔を覗き込んだ。

「栞……」

「申し訳、ございません……」

 掠れて精気の無い栞の第一声は謝罪だった。

「御子を……守れなくて……」

 頬を伝う涙を軽く拭うと、秋綱は首を小さく横に振り、顔を栞に近付けた。

「構わぬ……」

 静かに、そして、精一杯の優しさを込めた声に栞は微かに驚きの表情を作った。

「栞……。お前さえ生きているのであれば、他に俺は、何も要らぬ……」

 ゆっくりとそう言うと、栞の表情に微かな笑みが零れた。

「どうした?」

「やっと……本当の、夫婦になれました……」

 栞の儚い笑みに秋綱は握る手を強くした。

「すまぬ……。俺が至らぬばかりに、お前には辛い想いを……」

 秋綱の言葉に栞は力無く首を横に振った。

「あまり……ご自分を……責めないで……」

 言葉を繋ぐ事さえ辛そうにしながら、それでも、栞は秋綱に声をかけた。

「昂、兄様は……?」

 その名前が栞の口から出た瞬間、秋綱の肩が僅かに震え、秋綱は首を横に振った。

「わからぬ……」

 首を振りながら、それだけを伝えると、栞はもう一度笑みを浮かべた。

「昂兄様を……許せなくても……」

 静かに、弱く、しかし強い意思の籠った声が響いた。

「せめて……赦してあげて下さい……」

「幾らお前の願いでも、それだけは……出来ぬ……」

 首を振る秋綱に栞の手が弱々しく触れた。

「悪いのは……私の……私たちの父でございます……」

「それでも……お前をこの様な目に合わせて……良い道理は無い」

 秋綱の声に、栞は静かに秋綱と目を合わせた。

「憎しみは、憎しみしか生みません……。きっと……誰かが赦さなければ……誰もが悲しい目に会います……」

「お前は、それを、俺にしろ、と言うのか……?」

 震える眼差しで声を出す秋綱に、栞は小さく頷いた。

「私の愛した……」

 栞の目から、一筋の涙が零れた。

「私の愛する……秋綱様ならば、きっと……」

 力無く、しかし、力強い言葉を口にすると、栞は眼を閉じた。

「昂兄様を……」

「栞……」

 僅かに握った秋綱の手に、強い反応が返ってきた。

「せめて……助けてあげて……下さい……」

――それが、栞の最後の願い……。

 微かに震える栞の唇に、秋綱の両眼から涙が零れ落ちた。

「秋綱様に嫁いで、栞は……」

 栞の声が更に弱く掠れた。

「本当に……幸せでございました……」

 その言葉と共に、栞の身体から力が抜けていった。

「しお……り……?」

 秋綱の声が掠れた。

「逝くな……逝かないでくれ……頼む……もう一度、お前の……」

 零れ落ちる涙が栞の顔を叩いた。

「栞ぃ!」

 秋綱の号泣が夜の静寂を打ち破る激風の様に、大きく響き渡って行った。


 栞の葬儀が終わった後、秋綱はその墓標の前で小さく妻の名前を呟き続けた。

「俺は……護れなかった……」

――秋綱様……。

 優しく澄んだ声が、その耳をくすぐる事は、もう無い。

――御子が出来ました……。

 心を穏やかにしてくれる微笑みが瞳に映る事も無い。

――秋綱様は『瑞希の守護者』とお呼ばれになられているとか……。

「違う!」

 秋綱は天に向かって大声で叫んだ。いつの間にか降り出した雨が、秋綱の身体を冷たく濡らし、心を激しく打ちのめした。

――秋綱様がおられれば、瑞希の民は安心でございますね……。

「違う」

 雨に叩きのめされた身体が膝を折り、砂利の上に両手が着いた。

――瑞希の国をお守りくださるのでしょう……?

「違う……」

 握り締めた拳の中で、砂利が小さな音を立てた。

――不束者ですが……。

「ちが……う……」

 秋綱の拳が激しく地面を叩いた。

――昂兄様を……助けてあげて……下さい……。

「栞……しおり……しお……り……」

 何度もその名を口にしながら、地面を叩く拳から、皮が裂け、血が滲んだ。

「俺が……俺が、本当に護りたかったのは……」

 容赦無くその身を叩き続ける冷たい雨の中、うずくまる様に頭を地面に着けると、秋綱は何度も妻の名を呼び続けた。

「栞……お前の笑顔だった……」

 その想いを届ける術は、既に無くなっていた。やがて、雨がやみ、初夏の日差しが戻って来た時、秋綱は栞の墓標に自分の脇差を置いた。

――それが、栞の最後の願い……。

 耳について離れない言葉に秋綱は首を横に振った。

「すまない、栞……」

 秋綱はそう口にすると、静かに立ち上がった。

「やはり、お前の最後の願いだけは聞けぬ……」

 踵を返すと、秋綱は歩き出した。

「俺は……」

――昂を殺す。

 秋綱の傍を吹き抜ける初夏の風が、それまで雨が降っていたとは思えぬほどに、哀しく乾いていた。


 昂は夢を見ていた。それは、それまで見てきた昂の夢とは全てが違っていた。

――昂兄様……。

 少女のあどけない笑顔が、昂の心に鋭く、そして鈍い短刀を突きたてた。

「あ……」

――栞は昂兄様が好きです……。

 その微笑みが、突き立てられた短刀で出来た傷に塩を塗る。

「栞……」

――栞の夢は昂兄様に嫁ぐ事です。昂兄様の夢は何ですか……?

 慈しむ様な、それでいて哀れむかのような、そんな瞳が昂の精神を揺さぶった。

「見る、な……」

――昂兄様……?

 不思議そうに首を傾げる少女の声が、昂の心を混沌とした色に染め上げていった。

「俺をそんな瞳で見るなぁ!」

 己の絶叫と共に昂は目を覚ました。全身から噴き出す汗が、奇妙な現実感を浮き彫りにしていた。

「昂様……?」

 不意にかかる女性の声に、昂は静かに振り向いた。

「詩帆、か……」

「随分と、うなされていました」

 優しくかけられた詩帆の声に、昂は静かに頷いた。そして、強引に詩帆の身体を抱き寄せると、乾いた音が他に誰もいない部屋に響いた。

「人の心など、とっくに無くした物と思っていたがな……」

 そう言うと、詩帆の頭を自分の胸に押し当てる。

「胸が痛む……」

 されるがまま、昂の胸に顔を埋めた詩帆が、昂の背中に柔らかく手をまわした。

「人間でございますから……」

 詩帆の言葉に昂は静かに首を振った。

「詩帆……。俺は間違えたのだろうか……。栞を復讐の道具にした。何の罪も無かった栞に理由を無理矢理こじつけて、栞を殺した……」

「私にはわかりません」

 頭を抱かれたまま、詩帆はそう答えた。

「なぁ、詩帆……」

「はい」

「俺を抱いてくれ……」

 昂がそう言うと、詩帆は静かに昂から頭を離し、立ち上がると、着物を脱ぎ始めた。そして、再び座ると、昂の頭を自分の身体に抱き寄せた。

「詩帆は暖かいなぁ……」

 昂は静かに呟いた。

「ずっと……変わらないな……」

「人形でございますから……」

 昂の言葉に詩帆は昂の頭を撫でた。

「だが、心は人間だ……」

「心は昂様が教えてくれました」

 その言葉に昂は首を横に振った。

「お爺様は詩帆に身体をくださいました。父様は命をくださいました。そして心は昂様からいただきました。ですが、詩帆は人形です」

「詩帆は人間だよ。俺などより、ずっと、ずっと優しい人間だ……」

 昂はそう言うと、詩帆から身体を離した。

「もう、歩き始めた。復讐という名の悲劇は幕を開けた……。栞の御霊を無駄にしない為に、俺は進まなくてはいけない。その先に何があるか、俺にはわからぬ……」

 昂は天窓に差し掛かった月を見上げると、静かに呟いた。


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